「みなさん、今日はこの会場まで、どのように来られましたか?」
電車に乗って来た方。
バスに揺られてきた方。
駅から歩いてきた方。
きっと様々だと思います。
ですが、その道中で、“道の凸凹”や“段差”に注意して来た方は、どれだけいたでしょうか。
ほとんどの人にとって、歩くことや移動することは、「当たり前」なのかもしれません。
そこで、ひとつ質問です。
「当たり前」とは、一体なんでしょうか。
「当たり前」とは、日々の繰り返しによって作られる感覚です。
「慣れ」と言い換えてもいいでしょう。
人は慣れていく生き物です。
慣れは、日々の暮らしを楽にしてくれる人に備わった、便利な機能です。
ですが、その「慣れ」によって、
本当に大切なものを見失ってしまうこともあります。
「当たり前は当たり前ではないの」にです。
電車があるのは当たり前ですか?
バスが走っているのは当たり前ですか?
道路が整っていること、自分の足で歩けることは、本当に当たり前なのでしょうか?
今から11年前、私は「当たり前ではない」ということを痛いほど知りました。
14歳の夏。脳出血で倒れました。
右半身の麻痺。
失語症という言語障害。
右半分の視野が欠ける右同名半盲。
今こうして皆さんの前で話していますが、当時は話すことも、話を聞いて理解することも、文字を読むことも書くことも、まったくできませんでした。
それまで「普通」だ思っていたことが、突然できなくなったのです。
病気になって、初めての外出。
家族とラーメン屋に行きました。
病院の中には段差も凸凹もありません。
一歩外に出ると、そこには現実の「社会」がありました。
ラーメン屋に着いた、私の目に入ったのは、のれんではなく、入り口の3段の段差でした。
小さな段差が、大きな壁のように感じました。
私は思いました。
「これじゃあ、歩けない人は、ラーメン屋に行けないじゃん」そう思ったのです、
病気になって、私の「視点」は変わっていました。
そして今、私は理学療法士として働いています。
仕事では、患者さんが抱える課題を見つけ、それをどう乗り越えていくかを常に考えています。
その中で、身体機能と同じくらい大切なのが、「環境」です。
なぜなら、同じ体の機能でも、環境が違えば「できること」と「できないこと」は大きく変わるからです。
道がデコボコしていれば、車いすは通れません。
ほんの数センチの段差で、躓く人がいます。
私たちにとっては些細なことでも、高齢者や障害のある方にとっては、大きなハードルなのです。
実際に、生活道路のバリアフリー整備を行った地域では、高齢者の外出頻度が週4.5回から6.2回に増加し、徒歩の移動距離は1.5倍に伸びたという研究報告があります。
(出典:土木学会論文集D3)
さらに、「転倒が不安」と答えた人の割合は、整備前は7割だったのに対し、整備後は4割へと減少しています。
つまり、環境が整えば、外に出るハードルが下がり、
外出する機会が増え、
活動量が増加し、体力がつくことにつながる、ということになります。
人と関わる機会も増え、その人らしい人生を歩みやすくなる。
リハビリとは一言で言えば、「できなくなったことを、もう一度できるようにする」こと。
そしてその背景には、体だけでなく、心や環境が大きく関わっているのです。
そう考えたとき、私は思いました。
土木は、人の人生を変える力を持っている、と。
道路、橋、スロープ、
土木は暮らしに欠かせないインフラであり、ライフラインです。
でもそれは、物理的なラインだけでなく、
「心のライフライン」でもあるのです。
道があることで、もう一度外に出る勇気が湧く。
スロープがあることで、自信を持って出かけられる。
整備された道が、人生の再出発を支えてくれる。
土木には、そんな力があります。
そして、最後に伝えたいことがあります。
それは──
当たり前は、当たり前ではない。
ということです。
現代を生きる私たちは、あまりに多くのものに囲まれすぎて、
本当に大切なものを、見失いがちです。
だから悲しいことに、
多くの人は、大切なものを失ってから、その価値に気づいてしまう。
土木は縁の下の力持ちです。
日常にあるのが当たり前すぎて、
改めてその大切さを、気づくことが難しい。
健康と とても良くも似ていると私は思いました。
空気のように、ないと生きていけないのに、気づきことが難しい。
歩けること。
話せること。
目が見えること。
失ったら、とても困るのに、失ってから気づいてしまう。
すぐそばにある幸せが、当たり前になってしまう。
だから私は改めて、当たり前ということに、目を向けて欲しい、
そう思うのです。
皆さんの当たり前が
皆さんの幸せが
皆さんの普通が
これからも続きますように。