哲学とは、人が幸せに生きるためにどうしたら良いか考えること。
			それを体現したものの1つが土木である、私はそう考えます。
哲学には「真善美」という概念があります。
			真は理性や知性を表し、真理を求めることを、善は道徳や倫理を実現すること、
			美は自然や芸術の中にある究極の美を見出すこと、これらを目指すことが人間の理想である、というものです。
私はこれを土木の中に見出しました。
			皆さんは「円筒分水」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか?
			土木に関わられる方は既にご存じの方もいらっしゃると思います。
			「円筒分水」は文字通り、「円」の「筒」で「水」を「分ける」農業土木の1つです。
			川や溜池から水路で水を引き込み、自然の物理法則であるサイフォンの原理を用い、動力を使わずに円の中心から水を湧かせ、円周にたどり着いた水を下流の水路へ分配します。
発明されたのは大正時代。
			日本は稲作文化であり、水は米作りの生命線です。水が豊富にあると思われがちな日本ですが、水を公平に分配することは非常に難しく、水を求めての「水争い」はとても苛烈なものだったそうです。時に死者が出るほどだったとか。
			そのような課題がある中で、土木の専門家である可知寛一がこの問題を解決するために何度も何度も試行錯誤の実験を経てたどり着いたもの、それが円筒分水です。
			水を公平に分配でき、しかも視覚的に一目でわかるため、この装置のおかげで各地の水争いがなくなったそうです。まさに「丸く収めた」といえるでしょう。
			発明から100年以上経過した現在も、日本の農地で使用されています。
			もしかすると皆さんのお住まいの近くでも、今、まさに働いているかもしれません。
私が初めてこの土木装置に出会ったのは、6年前。
			長崎の雲仙を旅行していたときのことです。
			早朝に宿の近くを散歩していたとき、視界の端に何かがとまりました。
			気になって顔を向けると、道路脇に円い形をした構造物が。更にその中心からは水が滾々と湧き続けていたのです。
			これはいったい何だろう?何故ここにあるのだろう?この水はどこから来てどこに行くのだろう?当時「円筒分水」という言葉も知らなかった私は、この不思議な構造物と水の流れに魅入ってしまい、なかなか離れることができませんでした。
その後、これは「円筒分水」の名前と造られた歴史的背景、数が減りつつあるものの、全国で利用され続けていることを知りました。
			そうして、これまでに現存する240基ほどのうち、220基ほどを訪れました。
			現地に赴けば実際の農業の様子を目にします。高齢化し、田畑そのものだけでなく共有財産である水路を維持・管理にも大変な苦労があることが分かってきました。
			次第に「私も何かしたい、私に何かできることはないか?」という気持ちが高まってきました。
			その想いから熊本の通潤橋の水路と棚田を守るボランティア、神奈川県の久地円筒分水の美化ボランティアに参加し、活動を始めました。
			更に水路や畦地の回収ができるよう、小型車両系建設機械免許(バックホーですね)を取得してしまいました。
			そして今はこの場所に立っています。
			円筒分水と出会う以前には想像もしなかったことです。
さて、私は円筒分水の視覚的な美しさだけでここまで動いてきたのでしょうか?
			否、だと思います。
私は円筒分水の中にある「真」と「善」に深く共鳴してきたのです。
			「真」…平和を求め、安全を求める人々の希望に応えようとする技術者の努力。
			「善」…争いをなくし、平和をもたらす仕組み。そして今日も維持する人々たちの活動。
			「美」…「循環」や「和」を表す円が自然の法則を活かした理にかなった構造として取り入れられていること。
これらが全てあったからこそ、行動に移せたのです。
本日は私の体験を基にお話しをしましたが、土木全てに言えることだと思います。
			「土木構造物」は、人々の幸せを願って設計され導き出され具現化されたものであり、それを維持することで人々の生活の礎を作っています。
			そして結果としての美しさがある、まさに真善美、なのです。
私たち一人ひとりの中に、「真・善・美」を求める心があります。
			これは土木の専門家であるかを問いません。その心に従って、一歩を踏み出すこと。
			それが、幸せに生きるための哲学であり、土木の本質でもあると、私は信じています。