仕事の風景探訪 事例7(東北支部) 【コミュニティのチカラ】
事業者:松日橋受益者組合
所在地:岩手県気仙郡住田町下有住高瀬地内
取材・執筆・撮影:土木ライター 三上美絵
編集担当:平野勝也(東北大学/仕事の風景探訪プロジェクト・東北支局長)
川が増水したとき、水に抗わずに流れる「流れ橋」。
部材が壊れたり、小枝や枯れ草などが引っかかって洪水を引き起こしたりするのを防ぐ古来の知恵だ。水嵩が元に戻れば、再び架け直して使う。
岩手県沿岸南部の住田町(すみたちょう)を流れる気仙(けせん)川にはかつて、多くの流れ橋が架かっていたという。だが、現在まで残っているのは、松日(まつび)橋ただ一つ。
伝統の灯を守り続ける地元の松日橋受益者組合の金野純一さんと、東日本大震災を機に移住してこの橋に魅せられ、“勝手応援団”を自認する伊藤美希子さん・田畑耕太郎さんに話を聞いた。
流れた橋を架け直す。人力だけ、約3時間で元どおり
4月下旬の土曜日、午前8時半すぎ。集落の人々が徒歩や軽トラックで、三々五々集まってくる。数週間前の雨で流れた松日橋を、自らの手で架け直すのだ。
松日橋は、気仙川左岸の松日地区と右岸の中山地区を結ぶ簡素な木橋。橋長は約40mで、「ザマザ(叉股)」、「桁」、「橋板」で構成されている。釘は1本も使っていない。
「ザマザ」は、木の二股に枝分かれした部分を切り出して作る。二股部分を下にして水中に二つ一組で上下流方向に並べて置き、上部のホゾを「桁」のホゾ穴に差し、楔(くさび)を打ち込む。そうしてできた門型橋脚の上に、長さ10mの杉板4枚を左右が少し重なるように並べて橋とする。
「橋板」の重さと水圧で安定しているため、ふだんの流れではぐらつくこともない。大雨で水嵩が増えると、「橋板」や「桁」が浮き上がってバラバラになり、流れる仕組みだ。あえてホゾ穴を大きめに作り、楔が外れやすくしておくことで、「ザマザ」が残る確率が高まるという。
4月中旬に降った雨で流された状態の松日橋。対岸側の半分が残り、手前側はなくなっている
ワイヤーロープでつながった部材が岸辺に寄せられていた。傷まないように、木をかまして水から上げてある
胴長に身を包んだ男性6〜7人が川へ入っていく。腰まで水に浸かり、まずは「ザマザ」の状態を確認し、流されずに残ったものは位置を調整。破損して使えないものや流されたものは、新しい材に取り替える。
「「ザマザ」にするのは、沢に生えているクルミやヤナギがいんだ、水に強えから。陸(おか)のケヤキなんかでは腐ってしまう」。土手の上で電動ノコギリを使い、「ザマザ」のホゾを彫り出しながらそう教えてくれたのは、松日橋受益者組合の金野純一さんだ。住田町役場のOBで、東日本大震災のときには住田町下有住(しもありす)地区公民館の館長として、地区内に設置された木造仮設住宅団地の支援活動に尽力した。
松日橋受益者組合の金野純一さん。8月4日「橋の日」の野球帽が似合う
川の中にいる人たちが、バラバラになり岸辺に横付けされた「ザマザ」と「橋板」を元の位置まで運ぶ。それぞれの部材はワイヤーで連結され土手の木に繋がれているので、よほどの嵐でない限り、流失してしまうことはない。回収して何度も再利用できるのだ。
杉材でできた「橋板」は長さ10m、厚さは12cmほどある。陸上なら、とうてい一人や二人で持ち上げられる重量ではない。それが、川に浮かべれば楽に運べる。
「そーらっ!よいしょ!」。男たちは掛け声と共に「橋板」を一気に持ち上げ、「桁」の上に載せる。「も少しカミ(上流側)だ。よーし、オッケー!」。陸上で監督する金野さんは、「橋板」の高さや位置を大声で指示し、橋がまっすぐ架かるように導く。昼前には作業が終わり、松日橋は元どおり素朴で美しい姿を取り戻した。
クルミの木が二股になった部分を伐り、「ザマザ」を作る。幹の上部に電動ノコギリでホゾを彫り出す。「ザマザ」用の木は、倉庫にストックしてある
「ザマザ」のホゾを「桁」のホゾ穴に差し込む
厚さ約12cm、長さ約10mの杉板も、浮力を利用すれば楽に運べる
金野さんが陸上から「橋板」の高さや左右のずれをチェックし、川の中の人たちに指示を出す
今回は奥の3枚目と4枚目は流れなかったので、手前の1枚目と2枚目の「橋板」を架けた。
「橋板」を「桁」の上に載せるのが一番力のいる作業。掛け声で力を合わせる
「橋板」は1枚目の右側に2枚目、その左側に3枚目を並べ、4枚目は1枚目と一直線になるように左側に並べる。
この写真は対岸から見たところ。手前の3、4枚目は流れなかった部分だ
松日橋の始まりがいつだったのかは、分かっていない。現地の案内板によると、1698年の元禄絵図には左岸に松日集落と街道、右岸に中山集落や水田が描かれていることから、集落と集落、あるいは集落と水田の往来のために橋があったと考えられるという。
設計図はもちろん、架ける手順を記した書物もない。金野さんも子どもの頃から作業を見て、やがて手伝うようになり、自然に体で覚えていったという。「どう架けると聞かれたち、『いやんびゃ(いい塩梅)に架けんだ』としか言いようがねの」と笑う。
架け直した橋は、2〜3年もつこともあれば、1週間で流れてしまったこともある。「うまく架かったときほど早えんだわ」という人もいた。大変な重労働なのは間違いないが、なんだかみんな楽しそうだ。
渡る人は1日に数人でも、橋がなければ田畑へ行くのに不便だ。それだけではない。流されるたびに「橋架けすっか」と相談し、協力して作業をすることが、地域の絆にもなっていると金野さんは言う。
「自分たちの生活に必要なインフラを自分たちの手で作り、維持管理する。まさしくこれが『土木の原点』でしょう」。この取材を企画した東北大学災害科学国際研究所准教授の平野勝也さんは、撮影に来ていた地元ケーブルテレビのインタビューに、そう答えていた。
SUMITAテレビのインタビューに答える平野准教授
外から来て、松日橋に魅せられた若い人たちもいる。マーケティングプロデュース会社ビーアイシーピー・ハナレの代表を務める伊藤美希子さん、住田町建設課の主査・田畑耕太郎さん夫妻だ。
二人が住田町と関わるようになったのは、東日本大震災後に町が建設した仮設住宅がきっかけだった。直接的な津波被害を免れた住田町は、独自予算で町産材を使った木造仮設住宅を設置し、陸前高田市や大船渡市など沿岸部の被災者を受け入れた。かつて内陸と沿岸を結ぶ宿場町として栄え、物流拠点でもあった住田町は、川や街道でつながるこれらの地域と昔から深い交流があったという。
震災当時、東京の広告代理店に勤めていた伊藤さんは、大学院時代の先輩の後を追いボランティアとして仮設住宅のコミュニティ支援に参加。「仮設住宅へ通う道筋に松日橋があり、いつも美しい橋だなと思って車を停めては見ていました」と振り返る。3年後に、参加していた支援団体「邑(ゆう)サポート」が一般社団法人化すると、理事として伊藤さんの活動はさらに本格化し、住田町へ通う頻度も増えていった。
住田で暮らす田畑さんと結婚してからも別居を続けていたが、コロナ禍を機に伊藤さんが移住。2021年に勤務していた東京のマーケティングプロデュース会社の住田オフィスを開設、2023年に子会社としてビーアイシーピー・ハナレを立ち上げ、現在は地域や行政、地元企業のマーケティング活動支援を行っている。
仮設住宅の支援活動を通じて公民館長だった金野さんと知り合ってからは、SNSでの松日橋の情報発信を手伝うことに。松日橋の四季折々の姿を写真に撮ってアップしたり、橋架けの予定を知らせたりしている。
「松日橋はシンプルで美しいところが好きです。橋架けも、測ったりしないのが逆に効率的だし、ゆるやかなプロセスが寛容で人間らしい。何より、流れ橋を風景として守り続け、誇りに思っている人たちが好き」と伊藤さんは微笑む。
ビーアイシーピー・ハナレ代表の伊藤美希子さん。NPOの活動とマーケティングプロデュース業の“二足のわらじ”で活躍している
一方、建築を専攻する大学院生だった田畑さんは2014年、仮設住宅の入居者が集まることのできる場所をつくろうという研究室のプロジェクトに参加。住田町に通い詰め、翌年には移住して町役場に就職した。
それ以来、人口約5000人の住田町で、役場にただ一人の建築士として公共建築の設計や工事発注、供用後の維持管理、制度設計などを手がけてきた。ほとんど前例のない木造の消防署として建築界の話題を呼んだ「大船渡消防署住田分署」のプロポーザルを実施したのも、田畑さんの仕事だ。地元の人たちの手で昔から受け継がれてきた松日橋にも、個人的に愛着を持っている。
「松日橋は、デザインのお手本だと感じます。ものづくりに携わる人間として、『壊れても直せるもの』を作る精神を常に持っていたい、と思わせてくれる」と話す。
取材当日、伊藤さんと一緒に橋の架け直しを見に来た田畑さんは急遽、助っ人として作業を手伝うことになった。もちろん、初めての経験だ。架橋を終え、川から上がってきたところで「明日は筋肉痛かもしれませんね」と話しかけると、学生時代はラグビー選手だったという田畑さんも「今すでに背中が痛い」と笑った。
流れた松日橋を見る田畑さんと伊藤さん
普(あまね)く請(こ)うと書く「普請(ふしん)」という言葉は、元は仏教用語で、皆で協力して建築や土木の工事を行うことを指した。中国唐代の禅院では、集団による生産労働など一切の行為が互いに協調するなかで、真の自己を究明する修行の意味があったという。日本でも、弘法大師空海が民衆と共に、利他の心をもって満濃池の大工事を成し遂げたのは有名な話。
声を掛け合い、協力しあって繰り返される松日橋の橋普請は、土木の原風景だ。流れては架け直す伝統が、この場所で継承され続けることの意味は大きい。同時に、田畑さんや伊藤さんのような地域外から来た若い世代が、ここで松日橋を含めた地域の在り方を体感し、広く伝えていくことにもまた、大きな可能性が秘められている。
架け直しが完成した松日橋。山あいのまちの風景に素朴な味わいを添えている
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
このD&Iカフェトークでは、意外と身近にあるこんな働き方、生き方についておしゃべりしています。店主は土木学会でD&Iを考えているチームのメンバーです。
土木に限定せず、でも日頃土木の世界にいる人たちの興味からゲストをお招きして、ラジオ感覚で聴けるトークをお届けします。
根が真面目な土木!なので学会からの申し込みをお願いしていますが、もちろん学会に縁のない方、学生さんなど、どなたでもふらっと、気楽にお立ち寄りください。
D&Iカフェトーク
特別編 第3回 会長特別対談
大きな学会と小さな学会 ー両方からみえてくること
中高は女子校で、大学はほぼ男子校。
そこから歩んできた道や、現在会長を務める農村計画学会という
規模の小さな学会の特徴を伺いながら、
大規模な学会のあり方を改めて見つめてみます。
日時 :2025年6月20日(金)17時~18時
ゲスト :斎尾 直子さん
(第22期農村計画学会会長)
https://rural-planning.jp/
アンカー:佐々木 葉 さん(第112代土木学会会長/早稲田大学)
申込みページはこちら
https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_Q1SV4EKkQyqm2LalJ3ZhYw#/
これまでの開催概要とアーカイブはこちら
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトD&IカフェトークWG
【支部名】東北支部
【事例キーワード】①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
東北支局担当の平野勝也(東北大学)です。ようやく東北の「仕事の風景探訪」を紹介できることになりました。土木マニアの中では、知る人ぞ知る「松日橋(まつびばし)」です。岩手県の沿岸部の少し内陸にある山間の素敵な林業の町、住田町に松日橋はあります。松日橋は住民の手で架けられ、流されてもまた、住民の手で架け直され続けてきた、まさに土木の原点とも言える橋です。
住田町役場の田畑さんにご尽力いただき、さあ取材!と言う1週間前に、「松日橋流れちゃいました」とのお知らせ。もともと、取材に合わせてザマザ(さてこれはなんでしょう?記事本文をお楽しみに)を採る作業するので、それを記事にしてくださいと言うありがたいお話だったのですが、せっかく行っても橋はない。正直、残念。とはいえ、逆に橋が無い姿も流れ橋の醍醐味。気を取り直して、取材を楽しみにしていたところ、なんと前日に、明日、川の水量次第で架け直しをするかもしれないとのお知らせ。持ってます!まさに橋の架け直しを取材させていただけました。
平野は高田松原津波復興祈念公園のデザインをお手伝いしていたこともあり、陸前高田市にはそれなりの頻度で訪れていて、隣町の住田町に松日橋があるというのは知っていたのですが、なかなか昼間に訪れる機会がなく、月夜に浮かぶ幻想的な松日橋しか見たことがありませんでした。ぜひ昼間にちゃんと見たいと思い続けて幾年。念願の昼間初訪問させていただき、しかも、架橋そのものを拝見することができました。自分もお手伝いできるように胴長を持って行くべきだったと反省しつつも、やっぱり土木っていいなと。そして、みんなのために橋を架ける皆さんの楽しそうな姿に、土木屋の根源的な喜びを感じた次第です。
今回のライターも、 「かわいい土木見つけ旅」でお馴染みの土木ライターの三上美絵さんです。さすがライターさんと言う記事に纏めてくださっています。ぜひご一読を!
写真 月夜の松日橋
写真 住田町にはこんな素敵な水路橋もあります
仕事の風景探訪:事例6(四国支部)【技術のチカラ】【コミュニティのチカラ】【記憶のチカラ】
事業者:新居浜市(当初の建設は住友各企業)
所在地:愛媛県新居浜市角野新田町
取材・執筆:ライター 大井智子
取材担当:白柳洋俊(愛媛大学/仕事の風景探訪プロジェクト・四国支局長)
グラウンドに足を踏み入れると、壮大な石積みの構造物が目の前に広がった。愛媛県新居浜市にある「山根グラウンド」の観覧席だ。明治時代に稼働していた別子銅山の製錬所跡地に、1928(昭和3)年に完成した。施工会社ではなく、住友の社員が休日を返上し「作務(さむ)」といわれる労働奉仕により整備されたというから驚きだ。
遠くから見上げると、まるで段々畑を縮めたような眺めだ。生子山(しょうじやま)の斜面に沿ってつくられた観覧席の収容人数は3万人以上といわれている。当初のグラウンドは住友各社対抗の運動会などに利用され、現在は山根公園内の施設として新居浜市が管理し、現役の観覧席として広く市民に使われている。100年近く経過したいまも、ほぼ当時の姿を残している。
階段状の石段は最大で27段。東西方向の延長は最長約120mあり、西側が緩やかに湾曲している。南北方向の奥行きは約30m。石積みは、生子山の斜面の擁壁も兼ねている。
石段は最大で27段ある(写真:白柳 洋俊)
石積みは石同士を組み合わせて固定する空石積み。段ごとに傾斜を設けて積む矢羽根積みとなっていた(写真:大井 智子)
石積みに使われたのは、敷地西側を流れる国領川の角が丸い川原石だ。段ごとに交互に傾斜を設けながら石を積む矢羽根積みで、モルタルなどで目地を固定しない空石積みとなっている。
観覧席の上は、意外と踏み面が広い。場所によって幅員は異なるが、広いところは2m近くありそうだ。市民がお祭りなどを観覧する際は、数家族がゆったり座れる幅があるという。踏み面の表面は土で草が生えており、公園整備の際にモルタルによって固められた箇所もある。
石の形や大きさは一律ではなく、エリアごとに積み方が微妙に違っている印象だ。施工した社員の組ごとに個性が現れているのだろうか。
石の積み方は場所によって施工した人たちの個性が現れている印象を受けた(写真:白柳 洋俊)
踏み面の幅員は意外と広い。西側は緩やかに湾曲している(写真:白柳 洋俊)
新居浜市は、住友の別子銅山を中心に形成された企業城下町だ。グラウンドと観覧席は、昭和初期に住友別子鉱山株式会社の最高責任者を務めた鷲尾勘解治(わしおかげじ)が提唱した「地方後栄策」の一環として整備された。
それにしてもこの広大な観覧席は、どのような経緯でつくられたのだろう──さっそく山根公園を管理する新居浜市役所を訪れて、誕生までのいきさつを聞いた。
斜面地に残された土留めの石積み別子山村(べっしやまむら、現・新居浜市)の山の中で、住友が別子銅山を開坑したのは1691(元禄4)年のことだ。
鉱脈が深くなるにつれて採鉱本部も移転し、1916(大正5)年に東平(とうなる、現・新居浜市)、1930(昭和5)年に端出場(はでば、現・新居浜市)と徐々に山を下りてきた。1973(昭和48)年に閉坑するまでの約300年間、住友による鉱業活動の中で培われてきたのが、石積みの文化だという。
「彼らは平地のない山の中の谷筋を、自分たちで開拓してきました。斜面地を切り土や盛り土で造成し、石積みで土留めして平らな土地を作り、事務所や社宅、学校などを建設したのです。そうした石積み文化のDNAが住友各企業社員の中に代々受け継がれてきたのでしょう」。新居浜市の企画部別子銅山文化遺産課別子銅山産業遺産統括参事の秦野親史さんはこう話し、1枚の航空写真を見せてくれた。
写っていたのは、段々畑のようにびっしりと続く石積み群。かつて、この場所に社宅が並んでいたことを教えてくれる。2023(令和5)年12月、東平地区で大阪・関西万博の「住友館」建設用に大規模に樹木が伐採された時に、山の斜面に呉木住宅の石積みの遺構が現れたのだという。
樹木が伐採された後、東平の斜面地の社宅跡に土留めの石積みが現れた(写真提供:新居浜市)
明治時代に開拓された東平の斜面地。社宅や学校、事務所などが立っていた(写真:原 茂夫)
新居浜市の別子銅山文化遺産課課長の土岐幸司さんは次のように話す。「住友別子鉱山の鷲尾勘解治は、鉱石を掘り尽くした後も新居浜が発展するように様々な都市基盤整備を実施しました。鉱業から工業への移行を見越し、海岸沿いに埋立地を造るなどのインフラ整備のほか、銅山なき後の都市計画を提唱したのです」
山根グラウンドと観覧席も福利厚生施設の一つとして建設された。閉山後、住友の協力のもと、1986(昭和61)年、昭和天皇の在位60年を記念して計画された健康運動公園として、グラウンド(観覧席を含む)と社宅跡を新居浜市が整備した。2009(平成21)年には「山根競技場観覧席」として国の有形文化財に登録されている。
昭和、平成、令和時代と1世紀近く存続できた理由社員がボランティアでつくった石積みの観覧席が、なぜ1世紀近くも当時の姿をとどめて現存できたのだろう──そんな疑問に土岐さんは、「完成当初からずっと現役で使われ続けてきたからではないでしょうか」と答えてくれた。
もともとこの場所には1888(明治21)年から1895(明治28)年までの8年間、山根製錬所があった。当時の産業遺構として唯一残るのが、生子山山頂の「旧山根製錬所煙突」だ。グラウンドを含めた周辺一帯は、赤レンガの煙突があることから、「えんとつ山」の愛称で市民に親しまれてきたという。市民活動も盛んで、任意団体の「えんとつ山倶楽部」が山道を整備したり、イベントを企画したりと、積極的に活動している。グラウンドや観覧席もえんとつ山と一緒に、日常の身近な存在として市民に愛されてきたようだ。
観覧席の上に見えるのは大山積神社。生子山の山頂に見えるのが「旧山根製錬所煙突」(写真:大井 智子)
山根グラウンドの観覧席が、大きな存在としてスポットライトを浴びるのが毎年10月に開催される「新居浜太鼓祭り」の時だという。地区ごとに豪華に装飾した太鼓台を約150~200人の男性が担いで競うお祭りで、「特に10月17日は『上部地区山根グランド統一寄せ』として山根グラウンドに20台ほどの太鼓台が集結します。その様子を見ようと、全国から集まった人たちが観覧席をびっしりと埋めるのです」。こう熱く語るのは、新居浜市建設部都市計画課技幹の庄野仁規さん。スマートフォンからとっておきの写真を見せてくれた。
すごい。米粒みたいな人、人、人で観覧席が埋まっている。確かに、収容人数とされる3万人は集まっていそうだ。
市政80年を記念して夜間開催された年の、「新居浜太鼓祭り『上部地区山根グランド統一寄せ』」。
観覧席が多くの人で埋め尽くされた(写真:庄野 仁規)
2024(令和6)年の「上部地区山根グランド統一寄せ」の様子(写真:庄野 仁規)
お祭り以外でも、グラウンドは地域の運動会や野球、グランドゴルフなどに使われるという。つい先日は、桜の花見客で観覧席がにぎわっていたようだ。
桜の満開時期は、花見客で観覧席がにぎわう(写真:白柳 洋俊)
それにしても、これだけ大規模な空積みの石積みが原型をとどめているのは、構造面に何か秘密があるのだろうか──。
秦野さんによると、「これまで石積みが大きく崩れたことはなく、2001年に安芸灘で発生した芸予地震でも大きな被害は発生しなかった」という。「1つの段の踏み面が広く、奥行きが長いことや、勾配などと関係があるのかもしれないですね」と推察する。
庄野さんは、「どれだけ土を盛っているのか、背面の土量によってかかる土圧は大きく変わってくるはずです。ただ空石積みなので、構造計算で検討することはできません。すべて経験則で積んだのでしょう」という。
普段は鉱山に従事する一般社員が、石工顔負けの施工技術を備えていたとは──
取材当日、新居浜市役所の職員の方々が集まって話を聞かせてくれた(写真:白柳 洋俊)
土岐さんは、資料を広げて別子銅山の変遷について説明してくれた(写真:大井 智子)
天皇陛下御在位六十年記念健康運動公園の指定を受け新居浜市で改修工事を実施した。
現地に移動して観覧席を見学すると、改修の足跡を見ることができた。石積みの間からは、水抜き用のパイプが顔をのぞかせていた。また、観覧席は大きく上部と下部に分かれ、間に幅員の広い通路があるが、そのすぐ下の段に、排水溝とその蓋のグレーチングが横断方向に延びていた。
写真上から2段目の石積みに、水抜き用のパイプが挟まれていた(写真:大井 智子)
石積みの上部と下部の間にモルタルで舗装された通路が配置する。
すぐ下の段に排水溝とグレーチングが横断方向に延びていた(写真:大井 智子)
建設当初の観覧席は今よりも席数が多く、北西面を除き馬蹄形にぐるりとグラウンドを囲む形をしていたという。「おそらく体育館を建設する際、グラウンドとの間にある観覧席を撤去したものと思われます」(庄野さん)。
創建当初は、写真右側に見える体育館とグラウンドの間に、観覧席が続いていた(写真:大井 智子)
見学する我々の誰よりも“長寿”な石積みを眺めているうち、様々な想像がふくらんできた。共に取材に臨んだ愛媛大学の大学院理工学研究科准教授の白柳洋俊さんは、「もしかすると、創建当時は上部と下部の観覧席を隔てる通路はなく、上から下まで石積みが連続していたのではないでしょうか」と目を輝かせる。
あとから1段分を取り除いて擁壁を補強し、さらに使い勝手がいいように広幅員の通路を整備したのだろうか。有力な証拠として白柳さんが示すのが、上部の一段目の石積みだ。ほかの段に比べると蹴上げ部分がはるかに高い。もしかするとそうかもしれない……。
だが残念なことに、観覧席の詳しい資料や図面はほぼ残っていない。じっとたたずむ石積み群は、静かに我々のロマンをかきたてていった。
通路右側に見える上部の観覧席の一段目は、ここだけ石積みが高く積まれていた(写真:大井 智子)
この堅牢な観覧席を背に送り出した、住友各企業の社員による勤労奉仕について知るために、次に、グラウンドに隣接する「別子銅山記念館」を訪ねた。
別子銅山が閉山した2年後の1975(昭和50)年に建設された記念館で、住友グループ発展の原点を伝える様々な資料を展示している。
別子銅山記念館で館長の神野和彦さんと主任の秋山将さんに話を聞いた(写真:白柳 洋俊)
別子銅山記念館で館長を務める神野和彦さんは、「元禄時代から採鉱を続けてきた住友は、300年以上にわたってこの地域にお世話になってきました。いずれ山の鉱脈が尽きた時、町が衰退せず今後も発展し続けるよう、鷲尾勘解治は様々な対策を講じてきたのです」と説明する。新居浜市職員の土岐さんの話にも出てきた通りだ。
鷲尾勘解治は、当時、無尽蔵と思われていた鉱脈について、昭和初期に厳格な鉱量調査を実施した。その結果、「約20年後に鉱脈が尽きる」という結論に達し、これを公表。新たに工業都市として新居浜が発展するために、新居浜港の築港と海岸部の埋め立てや、都市計画道路の整備に着手した。さらに、従業員が快適に生活できるように、山根製錬所の跡地に住宅を新設し、「山根グラウンド」などの福利厚生施設を充実させた。
もともと鷲尾勘解治は高校・大学時代に寺で禅宗の修行を積んでいた。住友本店に入社し別子鉱業所勤務になってからは、まずは現場を知る必要があると考えて、3年間身分を隠して一坑夫として坑内労働を体験したというから、すごい。
別子鉱業所支配人を経て住友別子鉱山専務取締役に上り詰めた鷲尾勘解治は、常に労働者と地元の人たちの福祉に心を砕き、会社と地元の共存共栄に向けて事業の経営に当たったという。「住友の理念として受け継がれているのが、『自利利他公私一如』という言葉です。住友を利するとともに、国家や社会を利するという考えです。公私は相反するものではなく、一つのものという意味です」(神野館長)。
昭和初期の山根グラウンド。新居浜の住友連系各社従業員で組織する「住友予州親友会」の大運動会が、毎年11月に開催されていた(写真提供:別子銅山記念館)
観覧席の上段には別子銅山の守護神の「大山積神社」が、採鉱本部の移転と同時に遷宮されている。祭事の際は、社員が力士を務める奉納相撲が行われていた。若かりし第24代式守伊之助が行司を務めたこともある。現在、別子銅山記念館が建つ場所に、以前は大きな土俵があったという。さらに別子銅山記念館の裏手には、相撲を楽しむための観覧席がいまも一部、残っている。山根グラウンドの観覧席と同じ石積みだ。
別子銅山記念館の裏手に、相撲を観戦するための石積みの観覧席(写真正面奥)が残っていた(写真:白柳 洋俊)
住友各企業の社員は、山根グラウンドや観覧席だけでなく、これら大山積神社の敷地や相撲場も全てつくりあげたという。別子銅山記念館で主任を務める秋山将さんは、「当時は重機などありません。まず土地の整地から作業を始め、さらにトロッコ用の軌道をつくり、近くの国領川から川原石を集めてトロッコで運び、人力で石積みの観覧席をつくったのです」と話す。
今も住友グループの各企業の社員は研修として、別子銅山記念館で歴史を学んだあと、当初の鉱山本部やまちの遺構が残る山の中を登山するという。登山道は冬の間は閉ざされ、春の点検で石積みが雪で崩れていると補修したりする。「最初に掘られた重要な坑口が一部崩れていた時は、大きく改変しないように昔の絵などを参照しながら2001年に補修しています」(神野館長)。
ちなみに、新居浜市の小学生はふるさと学習で鉱山の歴史を学び、中学生になると旧別子山村を目指して登山するという。また、えんとつ山近くにある愛媛県立新居浜南高等学校では、ユネスコ部が別子銅山の近代化産業遺産をテーマに25年以上にわたって調査、研究を続けているという。教員現場でも企業城下町としての成り立ちを学ぶ取り組みが続いている。
劇場の跡。基礎となる擁壁が城壁のように積み上げられている(写真提供:別子銅山記念館)
採鉱課長の住宅跡の石積み(写真提供:別子銅山記念館)
測候所の跡地にも石積みが残る(写真提供:別子銅山記念館)
新居浜市役所で土岐さんに聞いたように、採鉱本部の拠点は大きく2回移転した。「鉱山は山の中で掘るので、最初は町づくりから始まります。動物たちが棲む狭い谷筋で斜面を切り開いて、事務所や採鉱場、製錬所、住居を建て、さらに学校、病院を建設して町ができていくのです」(神野館長)。まちづくりと同時に、産出した銅を山の中から運ぶための鉱山鉄道や道路なども徐々に整えられていった。
秋山さんは、「当時の人たちは機械がないので何をするにも手づくりでした。今でいう日曜大工で手先も器用でした」という。自宅をつくるのに、山の中で崩れないように石垣を積み、修理も補強も自分でやる。「日常が作業です。そもそも山の中での採掘は暗闇の中を手作業で掘っていくので、手先が器用でないとできません」(秋山さん)。
それら住居や娯楽施設としての劇場の跡は山の中に現在も残っている。「まるでお城の城壁です」と秋山さん。山の中の石積みは、伊予の青石と呼ばれる「緑色片岩」が多く使われた。割れると板状になる石で、地元で多く産出されるものだ。
これらの手作業が集結し、技術の粋を集めてつくられたのが山根グラウンドの観覧席というわけだ。まさに、別子銅山の歴史の中で300年かけて築き上げてきた、石積み文化の集大成だといえる。
意気込む我々に、秋山さんは、「石積みの観覧席をつくったというよりも、まずはグラウンドをつくることが目的だったのでしょう。観覧席は、グラウンドでの競技を楽しむ場所としてつくったのですね。木は腐るので、素材に石を選んだ。木であれば朽ち果てて、観覧席は現在まで残ってなかったかもしれません」と、感慨深げに話す。
小学校にも線路跡にも観光地にも石積みが山根グラウンドと国領川を挟んで200mほど西側にも、同じような石積みの観覧席があると聞き、さっそく市職員の人たちと現場に向かった。
新居浜市立角野小学校のグランドに面して、観覧席は学校の敷地外にそびえていた。山根グラウンドよりも規模は小さいが、同じように丸い川原石が積まれている。角野小学校の卒業生でもある新居浜市役所の庄野さんは、「運動会やお祭り集会として太鼓台が小学校のグラウンドに入る時など、観覧席として使われています」と話す。
新居浜市立角野小学校のグラウンドの奥にも石積みの観覧席があった(写真:白柳 洋俊)
草が生い茂っているが、山根グラウンドと同じような石積みだ。小学校の敷地外にありグラウンドとは柵で仕切られている(写真:大井 智子)
庄野さんは、「新居浜市では、深い山の中でも、多くの人でにぎわう観光地でも、本当に各地で石積みを目にします」という。現在は廃線となった旧別子鉱山鉄道の軌道にも石垣があり、採鉱本部の跡地を活用した観光地「マイントピア別子」にも多くの石積みが残っている。
マイントピア別子の端出場エリアにある旧端出場水力発電所に残る石積み(写真提供:新居浜市)
マイントピア別子の東平エリアにある産業遺構。レンガの石積みの遺構は、東洋のマチュピチュと称される(写真提供:新居浜市)
「有名な近代化産業遺産にも多くの石積みが残っているので、今回の取材で山根グラウンドの観覧席がフォーカスされるとは、実は思っていませんでした」とはにかみながら打ち明ける。
幼いころの庄野さんにとって観覧席は、「当たり前のように存在する日常の遊び場でした。段々の石積みで鬼ごっこをしたり、散歩したり。グラウンドで野球の試合があれば、観覧席に座ってご飯を食べたりしました」と懐かしむ。
角野小学校の観覧席を一緒に見学した新居浜市建設部都市計画課副課長の三並真由美さんは、「新居浜市は住友各企業によって町が発展してきました」とまちづくりについて話してくれた。
新居浜では、まず山の中に町ができてインフラが整備された。別子銅山の中心拠点が山を下りて本格的な港が整備されると、海岸沿いに商店街が栄え、さらに道路や鉄道が充実していく。「一般的なまちづくりでは鉄道駅を起点に整備されて発展するケースが多いですが、新居浜は違いました。居住地などの拠点をつなげていくクラスター型コンパクトシティのような整備手法は、今後の人口減少社会に向けたまちづくりの大きな参考になると思っています」(三並さん)。
将来に向かって観覧席を継承していくためには、大きな課題もある。
庄野さんは、「石積みが崩れた時に直せるような石工職人が、いまはいないことです」と打ち明ける。普通の石積みであっても施工できる職人はほとんどいないという。材料も、同じような石を調達することは難しい。これまで石積みが大きく崩れたことはないが、何かで外れた石を見つけた時は保管しておき、一部、崩れたところに使うなど工夫している。
最後に庄野さんは、「市民にとっては親しみ深く、日常の生活に寄り添う大切な場所です。300年の石積み文化を伝える観覧席として、今後もできる限り維持していきたいと思っています」と力強く語ってくれた。
観覧席の全景(写真:白柳 洋俊)
夕方になると野球を楽しむ少年たちがグラウンドに集まってきた(写真:大井 智子)
散歩を楽しむ人や、犬を連れた人を多く見かけた(写真:大井 智子)
石積みには、隣接する国領川の川原石が使われた(写真:大井 智子)
階段の上に見えるのが大山積神社。太鼓祭りの時は群衆による自重がかかり過ぎないように神社境内の入場を規制するという。取材には愛媛大学の学生が協力してくれた(写真:大井 智子)
【支部名】四国支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
四国支局長を務めています愛媛大学の白柳洋俊です。今回は、愛媛県新居浜市にある石積みの観覧席「山根グラウンド観覧席」についてご紹介します。
山根グラウンド観覧席は、1928(昭和3)年に住友の鉱山職員たちが勤労奉仕というかたちで手作業により築き上げた施設です。最大27段、延長約120m、約3万人を収容できる壮大な構造物は、100年近く経った今も現役で使われ続けています。その背景には、企業城下町としての新居浜市を支えてきた住友の、別子銅山を通じて受け継がれてきた技術力や、地域とともに歩む姿勢が息づいています。
取材に訪れた日も、観覧席では愛犬と散歩する市民の姿や、グラウンドでは元気にキャッチボールする子どもたちの姿が見られました。こうした日常の風景こそが、この観覧席が長く愛され、大切にされてきた理由の一つなのだと感じました。
本記事は、ライターの大井智子さんが執筆しています。丁寧に現地を歩き、石積みに宿る記憶や、そこに息づく人々の暮らしをあたたかな眼差しで綴って下さいました。読み進めるうちに、山根グラウンドがなぜ、どうしてつくられたのか——そんな背景が、まるで謎解きのように少しずつ明らかになっていきます。ぜひ、ご覧ください。
写真1 地域最大の祭り新居浜太鼓祭りの舞台にもなります(写真提供:新居浜市)
写真2 昭和初期の山根グラウンドの様子(写真提供:別子銅山記念館)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG公益社団法人土木学会(会長 佐々木葉)は、DEI(ダイバーシティ(多様性)、エクイティ(公平性)、インクルージョン(包摂))に関する土木学会としての方針を明言した「土木学会DEI行動宣言」を策定・公表しました。
土木学会は2015年に「土木学会ダイバーシティ・アンド・インクルージョン行動宣言」を発出し、これに沿ってD&Iの推進に取り組んできました。以来10年の間に、社会におけるD&Iに関する理解の広がりや深化が進んでいることなどを踏まえ、2024年度に第112代会長による「土木学会の風景を描くプロジェクト」の一環として「D&I行動宣言フォローアップWG」を設置し、社会の変化等に対応して2015年の行動宣言を改訂するための活動を行ってきました。
D&I行動宣言フォローアップWGにより作成された改訂案を理事会における複数回の議論を経て、2024年度第6回理事会(2025年5月16日開催)において新たな行動宣言が承認され、2025年6月4日に「土木学会DEI行動宣言」として公表いたしました。
行動宣言本文ならびに関連資料は、土木学会DEI委員会のホームページに掲載しています。
このD&Iカフェトークでは、意外と身近にあるこんな働き方、生き方についておしゃべりしています。店主は土木学会でD&Iを考えているチームのメンバーです。
土木に限定せず、でも日頃土木の世界にいる人たちの興味からゲストをお招きして、ラジオ感覚で聴けるトークをお届けします。
根が真面目な土木!なので学会からの申し込みをお願いしていますが、もちろん学会に縁のない方、学生さんなど、どなたでもふらっと、気楽にお立ち寄りください。
D&Iカフェトーク
特別編 第2回 会長特別対談
“多様”があたりまえの環境に - 学会という場ができること
10年まえにクオータ制をとりいれた
情報処理学会の森本会長をお招きし
異なる経験の交流や、未来のインフラについて伺います
日時 :2025年6月10日(火)17時~18時
ゲスト :森本 典繁 さん
(第32代情報処理学会会長
/日本アイ・ビー・エム(株)取締役副社長 執行役員 最高技術責任者兼研究開発担当))
https://www.ipsj.or.jp/
アンカー:佐々木 葉 さん(第112代土木学会会長/早稲田大学)
申込みページはこちら
https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_tLlSXCVqQSqiakhd7tDS9g#/
これまでの開催概要とアーカイブはこちら
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトD&IカフェトークWG
仕事の風景探訪:事例5【デザインのチカラ】【土地の記憶のチカラ】
事業者:長崎市中央総合事務所地域整備2課
所在地:長崎県長崎市
取材・執筆:茂木俊輔
編集担当:高尾忠志((一社)地域力創造デザインセンター代表理事/仕事の風景探訪プロジェクト・九州支局長)
撮影(特記以外):茂木俊輔(前掲)
何の変哲もない道路だと思ったら、大間違いだ。場所は、長崎市の中心部に伸びる紺屋通り。手前には寺社が立ち並ぶ寺町通りが走り、奥には石橋群で知られる中島川が流れる。市は一帯を対象とする道路修景計画を策定し、その中で景観舗装に関する方針を決定済み。一帯の将来像である「和のたたずまいと賑わいの粋なまち」を景観舗装のテーマに掲げる。この計画に基づき、市はこの紺屋通りで道路改良事業を実施し、2023年12月に工事を終えた。
なるほど舗装に目をやると、車道は白の骨材を30%ほど混ぜたアスファルト舗装のウォータージェット仕上げ、歩道は透水性の平板舗装。通常のアスファルト舗装より多くの予算を投じ、景観舗装のテーマに見合う舗装材をあえて採用している。この道路改良事業の見所はしかし、そこだけではない。最大の見所は、歩車道を分ける「白線」にある。
この「白線」、舗装止めの役目を果たす縁石と歩車道を明確に区分する区画線を兼ねている。
道路改良事業を担当する道路管理者の立場で言えば、歩車道で異なる舗装材の間に舗装止めの縁石を置きたい。一方、交通管理者である警察の立場で言えば、歩車道を明確に区分するため区画線を描きたい。双方の言い分をそのまま形にすれば、縁石と区画線は並存することになる。
ところがここでは、そうはならずに、縁石と区画線が一つにまとめられた。具体的には、150mm幅の白い縁石を舗装止めとして埋め込んだのである。ドライバーや歩行者などの道路利用者からは、それはただの「白線」にしか見えない。縁石と区画線の兼用である。
その立役者が、長崎市中央総合事務所地域整備2課で道路改良事業を担当した作本裕介氏だ(写真右)。2013年度以降10年以上にわたり景観専門監として公共事業の監修と職員の育成に取り組んできた地域計画家の高尾忠志氏(写真左)は「作本さんだから、できた。地元警察との協議の場で、もう一押し、もう二押し、粘っていましたからね。道路行政の現場でも担当者が踏ん張ると、こんなことも実現できるんですよ」と評価する。
作本氏がこの道路改良事業を担当することになったのは、2023年4月。前年度からの継続事業を前任者から引き継いだ。対象区間は、寺町通りから中島川沿道までの約133m。車道を片側1車線・幅員4.0mで確保したうえで、その両側または片側に歩道を整備する計画だ。
道路修景計画では紺屋通りを自動車・歩行者の交通量の多さから「歩車分離の道路」と位置付けていた。この計画に基づき歩車分離を徹底しながら、道路修景の観点から、歩車道の舗装を通常のアスファルト舗装から冒頭に紹介したような舗装材・仕上げに改めたのである。
(写真提供:長崎市)
ただ歩道と言っても厳密には、歩行者や自転車の通行スペースにあたる路側帯だ。歩車分離の必要性はあるが、道路構造令で定める最低幅員を確保できないため、車道の際に区画線をはっきり描くことで、歩行者や自転車の通行スペースを車道とは明確に切り分ける。
引き継ぎを受けた時には、地元警察との協議はまだこれからという段階。この段階では、作本氏はごく当たり前のように、舗装止めとしての縁石と歩車道を区分するための区画線を並存させる案を警察担当者に投げ掛けた。「ところが、それではドライバーが縁石と区画線を見間違う恐れがあるから、縁石の上に区画線を描いてほしい、と跳ね返されました」(作本氏)。
釈然としないのは、作本氏だ。縁石の上に区画線とは、屋上屋を架すかのよう。「地元警察との協議で詰めるべき点がまだ積み残されていたところに、この申し入れです。正直、困りました。警察との協議は本来、施工会社を選定するまでには終えておくべきものです。工事発注に向けた準備作業を並行して進めていただけに、短期間で知恵を絞る必要に迫られました」。
交通管理者側の言い分をそのまま受け入れることも可能だ。法令上も予算上も、問題はない。「しかし、……」。作本氏はここに来て、ある思いを巡らすことになる。
ものづくりは、こだわることで良くなる――。自身の体験として、市中心部に2017年11月に開園した出島表門橋公園の整備事業がある。公園行政を担当するまちづくり部みどりの課(当時)に配属されていた時期に携わったプロジェクトだ。「まちなかに立地することから景観面で一段と配慮して整備した公園です。ここでも舗装にはこだわりました。細部までこだわることで出来上がりの質が上がることを、この時に実感しましたね」。作本氏は当時を懐かしむ。
(写真提供:長崎市)
こだわりのポイントは大きく2つある。一つは、公園部分と歩道部分の舗装に同じ舗装材を用いたうえで、管理者が異なることから目に付きがちな境界は点字ブロックを並べることで自然な形に納めた点だ。もう一つは、舗装材の向き。表門橋を中心とする公園であることを強調する狙いで、舗装材には橋に向かうかのように45度の角度を付けて敷き詰めたのである。この2つに共通するのは、公園利用者や歩行者にとって歩きやすく心地良い空間にしよう、という心意気だ。
歩きやすさと心地良さは紺屋通りの道路改良事業でも求められた。言い方を換えれば、道路構造令上の歩道を確保できない中での歩車分離の徹底と景観舗装のテーマに見合う舗装材の採用である。この2つを実現しようとするなら、縁石の上に区画線を描くのは決して悪くはないが、どうにもムダな感じが付きまとう。その自らの違和感に、作本氏はこだわった。
そこで生まれたのが、縁石として白い部材を採用し、その天端を区画線に見立てる、というアイデアだ。このアイデアには出島表門橋公園の整備事業でもタッグを組んだ高尾氏もすぐに同意する。「警察側の言い分をそのまま受け入れられないときは、道路管理者側の言い分と折り合いをつけ、第三のアイデアとして示す必要がある。まさに、その第三のアイデアです」。
幸い、白い縁石もカタログ掲載の商品として調達が可能だった。「ただ幅は200mmだったため、それを区画線の幅に合わせて150mmに加工してもらう必要はありました。それでも割り増し費用は掛からず、通常の縁石と同程度の費用に収まる見通しでした」(作本氏)。
このアイデアが、決定打になる。地元警察との協議は2024年5月、作本氏が担当してから約1カ月で無事に終わる。実はそこには、市内の前例も力を貸している。
場所は、中島川に架かる眼鏡橋の詰広場交差点。眼鏡橋と一体で見られる場所であることから、交差点を石舗装で仕上げる方針を立て、横断歩道の白線も白い舗石で表現した例である。
「こうした前例を説得材料として利用できました。過去にも同様の実績があったからこそ、縁石と区画線を一つにまとめるという提案を受け入れてもらえました」。作本氏は協議成立の背景を分析する。
施工期間は2024年4月から12月までの8カ月間。同年8月には作本氏が現在所属している部署である水産農林部水産農林整備課に異動したため、同時に中央総合事務所地域整備2課に新たに配属された馬場雅俊氏が施工期間中に後を引き継いだ。
「区画線は路面塗装なので、次第に消えていきます。しかし白い縁石なら、区画線として消えてしまうことがない。費用対効果は案外高いかも」。馬場氏がそう指摘すると、作本氏も「確かに。この『白線』なら消えないな」とうなずく。想定外のメリットだ。
「このプロジェクトでは少しの工夫で達成感を得られました。そうした達成感を味わえたことが、次に担当するプロジェクトでのモチベーションにつながります」。プロジェクトに携わる醍醐味を作本氏はそう振り返る。好循環の源は、「少しの工夫」にある。
その工夫を生み出すのは、「まちを良くしたい」という思いにほかならない。まさに公共事業でまちの価値を上げることを目的に事業の監修と職員の育成に取り組んできた高尾氏は、道路行政に携わる土木技術者にこうエールを送る。
「土木は地味な仕事です。道路の整備くらいでは、ほとんど注目されません。しかし道路は、地域の中でベーシックな空間です。まちを良くしたいという思いの下、そこが丁寧につくられ、場所性に見合う仕上がりになれば、まちで快適に過ごせるようになるんです」
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
九州支局長を務めております一般社団法人地域力創造デザインセンター代表理事の高尾忠志です。今回は長崎県長崎市の事例を紹介する記事です。眼鏡橋に近い寺町エリアで行われた道路改修の取り組みです。
道路改修にあたっては施工前に警察協議が行われますが、「車道と路側帯の間に敷かれる白線」と「車道と路側帯の舗装を分ける縁石」とが二重に並ぶのはドライバーに誤解を招くので認められないので、縁石の上に白線を敷くように、との指摘に疑問を感じた長崎市土木技術職員・作本さんは、二重に並べるのでもなく、縁石の上に白線を重ねるのでもない「第3のアイデア」を考案しました。さて、それはどんな方法だったでしょうか…?
実は、私も長崎市景観専門監(非常勤特別職員として長崎市役所が行う公共事業全体の監修をするインハウス・スーパーバイザー)としてこの事業を監修しました。出島の対岸の公園整備でご一緒して以来10年以上にわたって作本さんとお付き合いしていますが、一貫して粘り強い作本さんのアイデアとそれを受け継いだ馬場さんのバトンリレーで実現した道路改修事業を、ライターの茂木さんが軽快なタッチでわかりやすくまとめていただいた記事となっておりますので、ぜひご覧いただけましたら。
眼鏡橋にほど近い「紺屋通り」の整備後の様子。何の変哲もない通りに見えるが。。。(写真提供:茂木俊輔)
紺屋通りの整備は歴代担当職員のバトンリレーで実現した(写真提供:茂木俊輔)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG設計者と施工者が一体となり、建築と土木の境界、設計と施工の境界を超えて、新しい都市にとけこむ洗練された橋を誕生させる物語を、設計者であるネイ&パートナーズJAPANの渡邉さん、鋼桁の製作を担当されたUBEマシナリーの和多田さんに、それぞれの立場から語っていただきました。「ものづくりの原点」が熱く語られています。
【エピソード6】
[テーマ] 建築と土木,設計と施工の垣根を超えて
[出演者]
司会:杉山 裕樹さん(阪神高速先進技術研究所)
ナビゲーター:石井 博典さん(横河ブリッジホールディングス)
ゲスト:渡邉 竜一さん(ネイ&パートナーズJAPAN)
ゲスト:和多田 康男さん(UBEマシナリー)
イイねボタンと応援メッセージ、質問、コメントはYouTubeのコメント欄または、動画概要欄に記載のメールアドレス宛にいただけると嬉しいです。
エピソード1:富山大橋の 橋洗い から考える
エピソード2:ツアーガイドから見た橋の魅力を考える
エピソード3:メディアが伝える橋の魅力とは-市民目線のインフラの魅力を考える-
エピソード4:コモンズ(共有財)としての在り方を考える
第112代土木学会会長のプロジェクトの1つ「クマジロウの教えてドボコン動画配信」では佐々木葉会長の家族のくまのぬいぐるみ“クマジロウ”が、土木学会のコンシェルジュの“ドボコン”に素朴な質問をします。短い動画で土木学会のしくみや活動をお伝えします。あれ?そうなの?なぜ?と今までのあたりまえを考えるきっかけになるかも。気楽にお楽しみください。
エピソード9:総会ってなに?土木学会の大事なイベントの1つである総会について紹介します。総会では前年度の事業報告や決算に加え、
理事及び監事、そして、会長の選任などが行われます。
総会の仕組みや、当日に開催される土木学会賞の表彰式についても紹介します。
土木学会令和7年度定時総会|https://committees.jsce.or.jp/jsceoffice/node/208
令和6年度土木学会賞受賞一覧|https://www.jsce.or.jp/prize/prize_list/p2024.shtml
2023年9月,熊本県にある石造水路橋の通潤橋が,橋梁として初めて国宝に指定されました.今回は,通潤橋の国宝への認定に尽力された文化庁の北河大次郎さんに,文化的な視点から橋の魅力を語っていただきました.
【エピソード6】
[テーマ] 文化財の視点から見た橋梁の魅力とその価値について
[出演者]
ゲスト:北河大次郎さん(文化庁 主任文化財調査官)
司 会:永元 直樹さん(三井住友建設)
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エピソード1:富山大橋の 橋洗い から考える
エピソード2:ツアーガイドから見た橋の魅力を考える
エピソード3:メディアが伝える橋の魅力とは-市民目線のインフラの魅力を考える-
エピソード4:コモンズ(共有財)としての在り方を考える
岩手県気仙郡住田町、気仙川に架かる木の橋「松日橋」。増水時は、ばらばらに流され、後日、ワイヤーロープで繋いでおいた部材を回収して復旧される。
この橋が大好きだという建築家、乾久美子さんに、どのあたりに魅力を感じるのかを伺いました。
【エピソード4】
[テーマ] コモンズ(共有財)としての在り方を考える
[出演者]
ゲスト:乾 久美子さん(建築家、Inui Architect / 横浜国立大学大学院Y-GSA教授))
司会:松井 幹雄さん(土木設計家、大日本ダイヤコンサルタント株式会社)
[Inui Architect(乾久美子建築設計事務所) Web Site]
https://www.inuiuni.com/
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新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトひろがるインフラWG
仕事の風景探訪:事例4【デザインのチカラ】【コミュニティのチカラ】【記憶のチカラ】
事業者:鹿児島県
所在地:鹿児島県姶良市下名地内
取材・執筆:ライター 大井智子
編集担当:高尾忠志((一社)地域力創造デザインセンター代表理事/仕事の風景探訪プロジェクト・九州支局長)、羽野 暁(九州大学)
県道が通る新山田橋のすぐ上流側に、川に面した小さな芝生広場が点在する。架け替えによって撤去した旧橋の面影をとどめるため、2019年に鹿児島県が整備した「やまだばし思い出テラス」だ。完成から6年──現在テラスは、地域住民の日常の休息場所となっている。
昭和初期に建造されたモダンなコンクリート橋が、どのような経緯をたどり、姿を変えて再生の道を歩んだのか──広場整備に至る住民参加のプロセスをひも解いてみた。
県姶良市を流れる山田川に架かっていた旧山田橋は、1929年に建造されたコンクリート橋だ。川の増水時に流木が堆積するなど治水上の課題を抱えていたことから、県は橋の架け替えを実施。旧橋の隣に新橋を設置し、橋詰めなどの道路残地を活用して広場を整備した。3カ所の広場は、いずれも旧橋の軸線上に配置する。
昔と変わらず重厚な姿を見せるのが、高さ3mの親柱だ。ツタに覆われた柱など、右岸と左岸にそのままの位置で保存した。親柱の間には、旧橋の解体時に切断して保存しておいた高欄を設置。高さをかさ上げすることで、転落防止柵として再利用した。
まるで旧橋をコンパクトに縮めたような姿は、高欄から川を眺めていた住民たちのかつての体験を思い出しやすいようにデザインしたものだ。
西側からの空撮。新山田橋の写真上側に旧山田橋が架かっていた。旧橋の軸線上の3カ所に芝生広場「やまだばし思い出テラス」を整備した。(写真:日経クロステック2019年12月3日掲載 撮影:イクマ サトシ)
オブザーバーとしてテラスの設計に加わったのが、九州大学キャンパスライフ・健康支援センターインクルージョン支援推進室で特任准教授を務める羽野暁さんだ。当時は霧島市にある第一工業大学(現・第一工科大学)の講師として、戦前のコンクリート橋を研究していた。
初めて山田橋を訪れたのは2013年。親柱がそびえ、高欄や橋脚にアーチ形状が連続する個性的な姿がそのまま残っていることに、大きく心を揺さぶられた。
関東大震災以降に各地で造られた鉄筋コンクリート橋は、100年残ると言われていたことから「永久橋」と表現されていた。水害のたびに流されていた木橋に代わり、各地域の一大事業として多くの費用を掛けて丁寧に建造されており、旧山田橋もそうした橋と思われた。
設計図は残っておらず設計者もわからない“無名橋”だが、アーチをくり抜いた形状が反復するデザインは何か意図がありそうだ。手仕事が残る造形は地域の設計者や施工者が相当のプライドと誇りをもって造り上げたに違いない── 羽野さんは、そう考えた。
しかし、当時はすでに橋の架け替えに伴う旧橋の解体撤去の方針が決まっていた。新橋は旧橋の10mほど下流に架かる計画だということも分かってきた。同じ位置の架け替えでなければ、人道橋として残せるかもしれない。「それには自分が行政側に橋の価値を伝えるだけでは不十分だ。地元の人たちが橋の保存を望む声を上げる必要がある」と、羽野さんは考えた。
解体前の旧山田橋。1929年建造で、橋長約60m、幅員約6m、6径間の鉄筋コンクリートT桁橋。橋脚や高欄にアーチ形状が連続する(写真:羽野 暁)
橋の上から見た解体前の旧山田橋。旧橋の1径間は約9mで4つのアーチが描かれていた。高欄の切断ではアーチ形状を保った7種類の長さにワイヤソー工法で切断し、転落防止柵やベンチに再利用した(写真:羽野 暁)
左岸側のテラス。旧橋の親柱はそのままの位置で保存し、間に2分の1径間の高欄を収めた。2019年に撮影(写真:大井 智子)
橋の魅力を地域の人に伝え、しかも自ら沸き起こる思いで行動してもらうためには、ワークショップでアイデアを募ったり、行政のアドバイザーとして地域に乗り込んだりする従来のやり方だけでは難しい。実践したのが、「地域の日常のコミュニティに勝手におじゃまして、仲間に入れてもらうこと」だった。
第一工業大学の学生とともに最初に取り組んだのが、旧山田橋の歴史の聞き取り調査だ。山田地域のお年寄りを訪ねて話を聞いていくうちに、旧橋の橋脚や高欄のデザインは国の文化財「山田の凱旋門」のアーチ形状を取り入れたらしいということがわかってきた。さらに、「橋があるのは幹線道路でしょ。せっかくだから鹿児一の橋を造ろうと、親柱に街灯がついたんですよ。それできれいな橋やったんですよ」といった話も聞くことができた。
国登録有形民俗文化財指定の「山田の凱旋門」。日露戦争の従軍者の帰還を祝い1906年に建造された。やまだばし思い出テラスから500mほど北側にあり、旧山田橋と凱旋門をつなぐ新馬場通りは当時メーンストリートとして栄えた(写真:羽野 暁)
ただし、圧倒的に多かったのは橋そのものの話よりも、「凱旋門と橋をつなぐ新馬場通りは商店街が立ち並んでいてにぎやかだった」「橋の上を駅馬車が通って、近くに旅館があった」といった橋にからめた古い記憶だった。
橋のデザインを美しいと思って始めた調査だったが、地域の人はそこまでデザインを重視していないのかもしれない。「それよりも、『親子3代の渡り初め式があったんですよ』『戦争中に落ちた爆弾が、橋の横にそれてですね』など、橋は地域の人たちの思いや記憶とつながっていたのです。調査を通して、旧山田橋のインフラとしての価値は『この町の歴史の舞台になっていること』なのかと気がつきました」。そう羽野さんは振り返る。
たとえ土木に関心がなくても、大人も子どもも橋の記憶を共有する方法として、羽野さんの頭のにひらめいたのが、紙芝居だった。さっそくパソコンを駆使し、聞き取り調査の話を土台に計15枚の「歴史紙芝居」をつくり、第一工業大学の学生とともに旧山田橋近くの山田小学校で上演した。
このときにある児童が発した言葉をきっかけに、その後、旧橋をめぐる動きが世間の注目を浴びるようになっていった。
計15枚からなる「歴史紙芝居」。創建当初は親柱に橋灯が灯っていた(写真:羽野 暁)
2015年12月に山田小学校で「歴史紙芝居」を上演した。児童のほか地域の人たちも観劇した。会場には旧山田橋の20分の1の模型を持ち込んだ(写真:羽野 暁)
紙芝居では、「創建当時の山田橋は橋灯が灯っていた」「橋灯は戦時中に撤収された」ことが紹介されていた。紙芝居が終わって質問タイムになった時のことだ。1人の児童がすっくと立ちあがり、「僕が山田橋くんに照明をつけてあげたい」と言ったのだ。
10年前にこの発言をした高橋暖樹さんに、今回の取材で話を聞くことができた。
保育園の時からずっと毎日、旧山田橋を渡っていたという高橋さんは、「橋は間違いなく、山田の凱旋門に次ぐ地域の第2のシンボルです」と力を込める。
「橋がなくなってしまうと知り、とても寂しく思い、それで照明をつけてあげたいと言ったのです。壊されてしまうのはいやでした。でもその後、新たな形に生まれ変わると知って、ほっとした。形が変わっても、親柱や高欄を活用して橋のなごりを残してもらえたのは最高です。あそこは今も僕の場所だと思っています」。
撤去間近の橋に灯篭を灯す話を当時に戻そう。
「照明をつけてあげたい」という発言は、それからずっと羽野さんの心に残っていた。紙芝居から約1年半後に新山田橋が完成すると、新旧2つの橋が隣り合い、共存する状態が10カ月ほど続いた。「もうすぐ取り壊される旧山田橋が歩行者天国のようになっていて、『もったいないな』と思いました。紙芝居の時の児童の発言を思い出し、橋の上で灯篭を灯すイベントをしてはどうかと思ったのです」。
そう考えた羽野さんはさっそく山田小学校に、イベントで使う灯篭づくりのワークショップを持ちかけた。ワークショップでは、灯篭を覆う和紙に旧山田橋とつながる日常の風景を描いてもらった。「描くのは橋そのものじゃなくていい。橋から見た風景でも、川にいる生き物でもなんでも構わない。自然の風景など橋と一緒にある記憶を描いた灯篭で、橋を送り出したいと思ったのです」。
2017年9月に山田小学校で「灯篭づくりワークショップ」を開催。全校児童70人のほか、保護者や住民が参加し、灯篭を覆うための和紙に、カワセミやアユ、竹林など山田の豊かな風景や橋での記憶を描いた(写真:羽野 暁)
90年近く現役として使われ続けた橋に感謝の思いを伝える灯篭点灯式は、地域で開催される「山田の里かかし祭り」の前夜祭として実施された。
「誰も来ないんじゃないか」。そんな羽野さんの心配をよそに、山田地域内外から200人あまりの人が旧橋に詰めかけた。150基の灯篭で彩られた橋の上では、お年寄りの間で「橋の上を渡って嫁入りしたのよ」「この橋から夫を戦地に送り出したね」といった井戸端会議が交わされていた。それを聞きながら羽野さんは、「橋というモノが残っているからこそ日常の話がよみがえるんだ。すべて消えたらどこまで明確に記憶を思い出せるのだろう。何とかして橋の記憶を残したいという思いが一層、強くなりました」という。
点灯式の様子は地域の放送局や新聞各社によって大きく報道され、旧山田橋の存在が地域外の人たちにも広く知られることになった。これを受け、旧橋の解体撤去の中止と人道橋としての市への管理移譲を求める請願が県と市に提出されたが、いずれも県・市議会が不採択とした。
2017年9月22日のイベントでは200人を超える人たちが旧橋に詰めかけた。イベントには報道関係者や県議会議員、行政職員も訪れた(写真:羽野 暁)
イベントでは親柱にも明かりが灯された(写真:羽野 暁)
イベント以降も旧橋にからむ活動は継続し、一部では自走するような動きも生まれてきた。
点灯式の翌日から開催された「山田の里かかし祭り」では、山田小学校の6年生が旧山田橋のかかしを作って、出展した。祭りの一環として、児童自ら地域の人たちに「歴史紙芝居」を披露もした。その後、羽野さんは山田小学校の6年生を対象に、旧山田橋をテーマとした道徳の授業を担当。生徒と一緒に旧橋にかかわる活動を振り返り、これからの山田地域について考えた。
2017年9月の「山田の里かかし祭り」で山田小学校の6年生が旧山田橋のかかしを作成した(写真:羽野 暁)
2017年9月の「山田の里かかし祭り」で旧山田橋の歴史紙芝居を上演する小学6年生(写真:羽野 暁)
2017年11月、羽野さんは小学校6年生の道徳の授業を担当した(写真:羽野 暁)
旧橋が世間の耳目を集める中、山田地域で地道に活動を続けてきた羽野さんは、旧橋への多くの人の思い出を聞きながら、橋の架け替えに対する住民の複雑な思いも感じてきた。
地域の任意団体「山田校区コミュニティ協議会」で会長を務める瀬戸口勉さんは、小学校時代は毎日、旧山田橋を通っていた。夏は川べりにホタルが舞い、幼いころの遊びは橋が架かる山田川での魚とりからスタートした。「旧橋は立派な親柱があって、高欄はアーチ型にデザインされ、路面もタイル張りでおしゃれな橋というイメージでした。近所の木の橋がしょっちゅう洪水で流される中、旧山田橋だけは頑丈なコンクリートのきれいな橋でした」と懐かしそうに話す。大人になって就職した時も、バスで旧橋を渡りながら都会に向かって出発した。「旧山田橋は生活の一部で、常に日常の中に存在していました」
一方で、ぬぐうことのできないつらい記憶もあった。30年前の水害では川の水が溢れて橋を越え、地域に大きな被害をもたらし、犠牲者も出た。橋脚が5本と多いため、大水のときは流木が引っかかって水が溢れた。洗堀によって橋脚の基礎は露出していた。瀬戸口さんは、「懐かしい橋は残したい。けれどもこれじゃいかんね。いずれは架け替えないといけないね。そう考える住民も少なからずおりました」と打ち明ける。
地域の人との話し合いを重ねた羽野さんは灯篭点灯式の半月後、山田校区コミュニティ協議会のほか地域の区長や学校長などと連名で、姶良市長あてに「山田橋の解体に伴う高欄の再利用に関する要望書」を提出した。「橋の保存がかなわぬことは大変残念」としたうえで、戦前期の橋梁の文化的価値と豊かな山田地域の記憶を残すために、「橋の解体に伴い、高欄をベンチや転落防止柵などに再利用すること」を要望した。市は、すでに旧橋の橋詰めなど道路残地の整備を決めていた県と協議を重ね、両者は広場整備における高欄の再利用を決定した。
旧山田橋の劇をつくる
旧山田橋を舞台とした活動を体験した山田小学校の6年生は、地域住民と第一工業大学が連携して作成した手ぬぐいを卒業式で贈られた。卒業式に招かれ、旧山田橋がプリントされたてぬぐいを児童に手渡した羽野さんは、「周りでは式に招かれた地域のおじいさんやおばあさんが卒業生を温かく見守っていました。そんな様子を見ながら、涙が止まらなくなってしまいました」と懐かしそうに話す。
卒業生に旧山田橋をデザインした手ぬぐいが贈られた(写真:羽野 暁)
「手ぬぐいは、今も大事にしまっています」。そうほほ笑むのは鹿児島大学1年生の西眞帆さんだ。小学校4年生の時に「歴史紙芝居」を見て、6年生の時に「灯篭イベント」に参加し、「旧山田橋のかかし」をみんなで作った。西さんに、当時の思い出を聞いた。
「新山田橋は現代風で高さが高くなってしまいましたが、旧橋は高さが低くて水面に近く、橋から川の様子を眺めるのがとても楽しみでした」。中学生になると、授業の一環で歴史に関する劇をつくって演じるという課題を与えられた。クラスのみんなでテーマに選んだのが、小学校時代に深くかかわった旧山田橋だった。
旧橋の歴史を知る人を訪ねて当時の話を聞き、自分たちで台本を作成した。第二次世界大戦で旧橋付近に爆弾が落ち、近隣の旅館が燃えたことなどの史実をベースに、劇を演じた。
山田校区コミュニティ協議会の山下裕子さんは、当時、この劇を見に行ったことを覚えている。1時間ほどの劇で、戦争で橋のたもとにあった旅館が燃えてしまうが、火でこげたみそ樽だけが残った。旅館のおかみ役を演じた西さんがみそ樽のみそを指に取ったところで、劇は終わる。「観劇している人の中には若い人も多く、自分も含めて、この劇を通して細かな地域の歴史を知りました。劇を見ながら、もうすぐなくなってしまう旧山田橋を思い、橋の記憶をとどめておきたいという気持ちが強くなっていきました」。山下さんはそう振り返る。
羽野さんと、小学校6年生の時に歴史紙芝居を観劇した西真帆さん(写真:大井 智子)
県による、広場整備の当初のたたき台案は、川沿いに柵を巡らせ、高欄はオブジェとして一部を残すというものだった。オブザーバーとして設計に加わっていた羽野さんはこれに対して、広場に芝生を敷き詰め、旧橋の高欄を転落防止柵としてたくさん活用することを提案。これが実現した。
旧橋の1径間は約9mあり、高欄に4つのアーチが描かれていた。橋の解体時は、高欄のアーチ形状を崩さないように2~5.5mの7種類の長さに切り分けた。5.5mの長さの高欄は、現地にそのまま残していた親柱の間にぴったりと納まった。転落防止柵として再利用する高欄は、現行基準を満足するため基礎を補強した上で高さを1.1mにかさ上げした。高欄の連結部や端部は、新たにデザインした柱を造り、高欄の基礎と一体化した。
高欄はアーチの形を崩さないように2~5.5mの長さの7種類の長さに切り分けた(写真:羽野 暁)
2019年竣工時の左岸側テラス。高欄との連結部や端部の柱は、既存の親柱とモチーフを合わせて羽野さんが新たにデザインし、高欄の基礎と一体化した。コンクリートには顔料を混ぜ表面は洗い出し加工を施したが、竣工当初は新旧の違いがよく分かった(写真:羽野 暁)
現在の左岸側テラスに立つ羽野さん。竣工から6年が経過し新旧コンクリート部材の違いは目立たなくなっていた(写真:大井 智子)
鹿児島大学の西さんは、「旧橋の歴史の中にその時代を生きてきた人の思い出があり、今の私たちの世代にも思い入れのあるものがあります」と言う。そうした思い出はどちらも対等なものだから、残していった方がいいと考えている。「本当の橋はなくなってしまったけれど、親柱や高欄があるのでかつて存在していたことが感じられます。テラスがあることで思い出が残る。それは大切で、とてもいいことだと思うのです」。
完成した「やまだばし思い出テラス」は姶良市が管理し、5~10月の期間は山田校区コミュニティ協議会などが月1回の草刈りを実施している。
コミュニティ協議会の山下さんは、「当時、旧山田橋は地域のシンボルで、橋を渡ることで『山田の里に戻ってきたんだな』と感じていました」話す。保育園に子どもを送り迎えする際に橋の上で子どもと川を眺めていると、通りかかった知り合いの車がスピード落として「何みとっとよ」「魚はおいやー」と声をかけてきたという。「橋の上は地元の人のコミュニケーションの場でもありました」。
2019年の竣工当時の左岸側の広場(写真:羽野 暁)
コミュニティ協議会会長の瀬戸口さんは、橋の面影を残すために次々と繰り出されてきた羽野さんの発想が、「いまも、不思議で、不思議でたまりません」と感心する。小学校で紙芝居をして、橋の上で点灯式をして、かつて川を眺めていたイメージを再現したテラスをデザインして──「旧山田橋はなくなりましたが、親柱も高欄も残っている。これからも、橋があったことが頭から消えることはゼッタイありません」とうれしそうに話す。
山田校区コミュニティ協議に集まってもらってメンバーに話を聞いた。左から、協議会の山下裕子さん、事務局長の﨑山亮一さん、会長の瀬戸口勉さん、羽野さん(写真:大井 智子)
右岸側の親柱。テラス整備で親柱を現地保存する際、絡まっていたツタもそのまま残した。今は新設した柱にもツタがはっている(写真:大井 智子)
右岸側のテラスから眺めた山田川。写真奥側に魚道がある(写真:大井 智子)
羽野さんにとって地域の人と日常的にかかわっていたインフラを整備する経験は初めてで、試行錯誤の連続だった。テラスとして橋の面影を残すことができた要因はいくつかある。当時の勤務地が現場に近く、地域と密接な取り組みができたこと。さらに要因として、「橋から見た時の周りの景色に恵まれていたことがありました」という。
清流と言われる山田川は多くの水鳥が訪れ、川が湾曲して水深が深いところは湖面のように水面が静かだ。かと思えばテラス近くの堰では、水音としぶきを上げながら勢いよく水が流れ落ちていく。こうした環境が整っていたからこそ、視点場としてのテラスを残すことができたと考えている。「主役は橋を舞台とした思い出。旧橋の高欄に寄りかかって眺めていた清流の流れや魚道の様子、山並みのほか、水しぶきなどを五感で感じた体験を思い出すことのできる場にしたいと思ったのです」と話す。
現在、テラスは姶良市観光協会が作成した観光コースのルートに組み込まれている。日常的には、地域の人たちが新たに置かれたベンチに座って川を眺めたりしている。コミュニティ協議会の事務局長を務める﨑山亮一さんは、テラスに込めた思いを若い世代へと継承していくために、ミニコンサートや明かりを使ったイベントができないかと考えている。「夏の夕暮れに右岸と左岸の広場に灯篭を置き、親柱に明かりをともせば両岸がつながり、橋がイメージできると思うのです。うん、やる気は十分です」と、力強くうなずいた。
2019年に撮影した右岸側の広場。旧橋の橋詰めを活用し、道路を挟んで2カ所に飛び地する。写真中央の手前で縦方向に並ぶのは、高欄を埋め込んだベンチ(写真:羽野 暁)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【事例キーワード】
①技術のチカラ ②デザインのチカラ ③自然のチカラ ④コミュニティのチカラ ⑤記憶のチカラ
九州支局長を務めております一般社団法人地域力創造デザインセンター代表理事の高尾忠志です。今回は鹿児島県姶良市の事例を紹介する記事です。新しい橋の建設とともに解体撤去されるはずだった「旧山田橋」に関わる素晴らしい取り組みです。
1929年に築造され、長年にわたって地域住民の暮らしの舞台、思い出の場所となった橋の価値を再発見する人の輪が、小学校の子どもたちを中心にして次々と繋がっていき、行政もそれに応えて、橋にまつわる記憶を大切にした場所が実現しました。そしてその取り組みプロセスの記憶も、そこに関わった地域住民や若い世代にも深く刻み込まれています。
市民の暮らしを支える土木構造物の価値が注目されることは残念ながらそう多くはありませんが、実はそこに暮らす人々の心の中に確かに存在しているのかな、と私も土木に関わる一人としてとても嬉しく拝読しました。そんな取り組みを進めてこられた羽野先生をはじめとする関係者の皆様に心から敬意を表したいと思います。
ライターの大井さんの愛のこもった素晴らしい記事となっておりますので、ぜひご覧いただけましたら。
解体前の旧山田橋は橋脚や高欄にアーチ形状が連続するなどデザイン性が高く、地域住民に愛されていた(写真提供:羽野 暁)
2019年の竣工当時の左岸側の広場。橋の記憶が継承されていく風景(写真提供:羽野 暁)
第112代土木学会会長のプロジェクトの1つ「クマジロウの教えてドボコン動画配信」では佐々木葉会長の家族のくまのぬいぐるみ“クマジロウ”が、土木学会のコンシェルジュの“ドボコン”に素朴な質問をします。短い動画で土木学会のしくみや活動をお伝えします。あれ?そうなの?なぜ?と今までのあたりまえを考えるきっかけになるかも。気楽にお楽しみください。
エピソード8:理事会ってなに?今回は、土木学会の運営方針についての議論や提言の最終決定などを行う場である理事会について紹介します。
理事会の制度だけなく、理事会メンバーの女性比率についても取り上げています。
土木学会役員https://www.jsce.or.jp/outline/director.shtml
土木学会宣言・提言https://www.jsce.or.jp/strategy/index.shtml
仕事の風景探訪 事例3【技術のチカラ】【デザインのチカラ】
事業者 静岡県河川砂防局、静岡県静岡土木事務所
所在地 静岡県静岡市
取材・執筆:ライター 茂木俊輔
編集担当:岡田智秀(日本大学理工学部/仕事の風景探訪プロジェクト・リーダー)
撮影(特記以外):岡田智秀(前掲)
(写真提供:静岡県)
静岡県の名勝地である三保松原近くの清水海岸から富士山を望む、おなじみの風景だ。上は2024年12月の撮影、下は2013年12月の撮影。この10年でずいぶんすっきりした。理由は、かつて水平線から頭を出していた消波堤が、ほとんど姿を消したことにある。
消波堤を撤去したのは、海岸管理者の県だ。芸術の源泉とさえ言われる霊峰富士への展望としては、今のほうが明らかに落ち着く。景観の改善策として、大成功だ。
なぜ今、景観改善なのか――。発端は、富士山の世界文化遺産登録にある。登録は、2013年6月。周辺の神社や湖沼など25の構成資産とともに登録されている。
ところが、そのわずか2カ月前には、審査にあたる国際記念物遺跡会議(イコモス)が、三保松原を25の構成資産から除外することを前提に富士山の登録を勧告していた。理由の一つが、三保松原から富士山に対する展望が審美的な観点から望ましくない、というもの。その観点から邪魔者扱いされていたのが、姿を消すことになる消波堤なのである。
結果的には逆転劇が起こり、三保松原も構成資産の一つとして認められた。しかし、審美的な観点から望ましくないという問題は残されたまま。県は三保松原が構成資産から除外されないように、イコモスの勧告を正面から受け止め、問題解消に乗り出すことを決める。
「危機感からですね。世界文化遺産には登録抹消の事例もあります。イコモスからの課題を海岸管理者として何とかしなければならないという思いでした。県河川砂防局長の山田真史氏は、同局河川企画課で海岸企画班長を務めていた当時の気持ちをこう思い返す。
景観改善に乗り出すうえで課題になったのは、海岸保全との両立である。
(写真提供:静岡県)
は長年、安倍川河口から三保松原方向に伸びる静岡海岸や清水海岸の保全に取り組んできた。これらの海岸には、安倍川から流れ出る砂礫が沿岸流で運ばれ、堆積してきた。ところが、高度経済成長期に安倍川の砂利が大量に採取されるようになると、砂礫の流出が減少し、砂浜の堆積域が狭まる一方で、侵食域が広がり始めた。1980年前後には、台風の高波による越波で背後地の道路が何度も被災するほど。背後地の防護が求められるようになる。以降、県は離岸堤や消波堤など海岸保全施設を築造する一方、海岸や河川への堆積土砂で養浜を繰り返してきた。
姿を消すことになる消波堤も、この時期に海岸保全施設として築造されたもの。ただ撤去するだけでは、それまでの取り組みに逆行してしまう。イコモスの勧告を踏まえ、景観上望ましくない消波堤を撤去する一方で、背後地の防護に向け、砂浜の回復につながる取り組みも欠かせない。この景観改善と海岸保全の両立という難題に、静岡県は挑んだのである。
県河川砂防局ではまず、学識経験者との二人三脚体制を築く。2013年8月、元文化庁長官の近藤誠一氏を座長とする三保松原白砂青松保全技術会議を設立。海岸工学や景観工学を専門とする学識経験者の協力を仰いだ。「海岸保全と景観改善の両立は海岸管理者の県だけでは乗り越えられない難題です。それに向き合うには、専門家の協力が欠かせませんからね」。県河川砂防局河川企画課課長代理の横山卓司氏は構成メンバーに込めた思いを明かす。
保全技術会議は2015年3月、最終報告書を公表。目指す姿を人工構造物に頼らない砂浜の自然回復に置いたうえで、向こう30~50年かけて砂浜が自然回復するまでの間、1号から4号までの消波堤を背の低いL型突堤に置き換えると同時に養浜を実施するという対策を打ち出した。
またL型突堤への置き換えを想定する場所は、海底勾配がきつく、波が減衰することなく押し寄せる。そのため、対策の詳細を検討するうえで利用した地形変化の予測と実際との間でズレが生じかねない。継続的なモニタリングとその結果に基づく順応的な対応の重要性も同時に説いた。
県河川砂防局では2015年度以降、ここで打ち出された対策に取り組んでいく。2015年4月には、保全技術会議の後継組織として三保松原景観改善技術フォローアップ会議を設立。県が定めるモニタリング計画を基に景観改善や海岸保全への効果と突堤本体や周辺環境への影響を定期観測し、状況の変化を踏まえながら順応的な対応を取るための体制も整えた。
最初に手を付けたのは、1号消波堤をL型突堤に置き換える工事だ。「羽衣の松」の近くで多くの観光客が訪れる地点から富士山を望むと、この消波堤が目に入る。景観上、最も問題視された消波堤であることから、L型突堤への置き換えを急いだのである。
L型突堤の横堤は9つの函体を鋼管杭で固定したもの。被覆ブロック張りの縦堤との組み合わせで、波の勢いを弱め、砂浜の侵食を食い止める一方、海中の漂砂を捉え、砂浜に堆積させる。「背後地の防護に必要な砂浜の幅は80m。消波堤を撤去しても、砂浜をその幅まで回復させられる性能の確保を目指し、砂の流れを50分の1模型で再現しながら堤体の構造を検討しました」(横山氏)。
L型突堤の設置を2019年3月に終えると、次に消波堤の撤去が待つ。
問題の一つは、どこまで撤去するか。景観改善の観点からは完全撤去がベストだが、経済性や実現性を考えると極めて難しい。こうした課題を検討するのも、フォローアップ会議の役割だ。そこでは、撤去レベルとして想定される4つの段階を、景観改善と経済性・実現性の観点から比較検討し、最適と考えられる到達目標と、より現実的な暫定目標を定めた。
もう一つ、撤去方法も問われた。「設置から数十年たっていますからね、消波ブロックはがっちりかみ合い、間には砂が入り込んでいる。そう簡単には除去できそうにない。施工会社と相談しながら、撤去方法を探っていきました」(横山氏)。最終的には、突起部にワイヤーを巻き付け、海側から起重機船で吊り上げる方法を採用。1日5~6個を除去する想定だ。
1号消波堤は結局、暫定目標レベルの高さまで撤去した。この高さに抑えれば、多くの観光客が訪れる富士山への視点場から眺めたとき、消波堤は鉛直方向の視角で1度の範囲内に収まる。「その程度の見
(写真提供:静岡県)
え方なら対象物の存在は気にならないという景観工学の知見に基づいています」。海岸景観の専門家として技術保全会議とフォローアップ会議に参画してきた日本大学理工学部教授の岡田智秀氏は目標設定の拠り所を解説する。
消波堤からL型突堤への置き換えと並行して、砂浜の回復に必要な養浜にも取り組んだ。県河川砂防局では、そこにも景観改善の視点を取り入れる。1号消波堤の背後に広がる砂浜には堆積土砂をただ盛るだけでなく、盛り土の見え方にもこだわった。多くの観光客が訪れる富士山への視点場から眺めたとき、富士山の手前で養浜盛土が塊として存在感を放つからだ。
「フォローアップ会議の開催に向け、景観に配慮した養浜盛土の検討について提案を受けた時は、『目からウロコ』でしたね。そんな発想があるのか、と。ただ視点場から富士山を眺めたとき、その手前に存在する盛り土は確かに、盛り方によって見え方が違う。勾配一つとっても、自然な印象を受ける角度があることに気付かされました」。山田氏は往時を振り返る。
養浜盛土のデザインについては、フォローアップ会議の委員で景観工学を専門とする東京大学名誉教授の篠原修氏と同じく岡田氏の協力の下、2015年9月から11月まで養浜景観勉強会を開催し、集中的に検討した。「景観に配慮した養浜盛土の基本原則」をまとめたうえで、養浜盛土の区域を中心とする300分の1模型を基に、養浜効果も踏まえながら基本形状を決めた。
ただ、形を一度整えれば終わり、というものではない。波による流出は自然の営為としてむしろ歓迎。海岸全体として見れば、養浜にもつながり得る。しかし、養浜盛土の法尻がざっくりと削られ、浜崖と呼ばれる崖状の断面が現れるようになると、景観上は好ましくない。「元の形状が崩れると、状況に応じて整形し直しです。定点観測が欠かせません」(岡田氏)。
そうした「海浜形状の変化」は、「海岸構造物の見え」とともにモニタリング項目に位置付け、主要な視点場から年3~4度、撮影した写真を通じて定点観測してきた。モニタリング計画に位置付けられたモニタリング項目は、この2つを含む全19項目。最低でも年1回は観測する。その結果は毎年、フォローアップ会議で報告し、評価を加えている。
「景観改善の面でも海岸保全の面でも、想定通りの効果を上げられています。1号消波堤の部分撤去で背後の砂浜が侵食されないか、心配していましたが、モニタリングの結果を見る限り、その恐れはありません。砂浜の幅は目標の80mを確保できています」。横山氏は胸をなで下ろす。
事の発端は景観改善だが、それ以前から注力してきた海岸保全で一定の効果を上げられたのは大きい。「砂浜の侵食は全国の問題です。どの海岸でも回復にまでは至らない中、ここでは一定の効果を上げられています。景観改善の価値も、だからこそ生きるんじゃないでしょうか。奇跡の二重奏ですよ」。県静岡土木事務所工事第2課班長の大塚一臣氏は誇らしげに思いを口にする。
県では目下、2号消波堤と置き換える離岸堤の設置に向け、準備中の段階だ。当初の計画では1号と同じL型突堤を想定していたが、台風で被災した2号消波堤の消波ブロックが海底に散乱していることが分かり、フォローアップ会議で設置位置を再検討。複数案を景観改善と海岸保全という2つの観点から比較検討した結果、2号消波堤を挟む南北の位置に横堤を設置する方針を固めた。
先行するのは2号消波堤の南。ただ計画を具体化していく過程で新たな事態が明らかになる。「2020年度の測量結果を基に堤体を設計したものの、この間、大きな台風はなく、漂砂が堆積して海底地形が変化していたんですね。計画位置では莫大な量の掘削が必要になると分かったんです」と県静岡土木事務所工事第2課総括主査の梅原裕氏。設計済みの堤体が最も効果を上げられる設置位置をフォローアップ会議で再検討し、沖合に28mずらすことになった。
担当者の頭を悩ませる課題は、相次ぐ変更だけではない。予算担当にとっては今、コスト高が最大の悩みだ。1号消波堤の置き換えであるL型突堤の設置工事費は予算額で約16億円。2号消波堤の南に設置するのは横堤だけで縦堤はないため、その分、安くなりそうだが、現実は甘くない。
「設置するのは横堤だけでも、位置を沖合にずらしたため、海底地盤まではより深くなるんです。それでも、最初は20億円くらいを想定していましたが、近年、労務費や資材価格が大きく上昇していることもあり、それではとても収まりそうにない。国の重要配分方針を研究し、予算の増額につながるよう国と相談しながら事業を進めています」。県河川砂防局河川海岸整備課海岸整備班班長の遠藤和正氏は前を向く。
この前を向く精神こそ、県河川砂防局に受け継がれてきたものだ。静岡県の挑戦を専門家としてずっと支援してきた岡田氏は、「合言葉は、まずやってみよう、でしたよね」と記憶を呼び覚ます。担当から外れた時期はあるものの初期を知る山田氏も、「そうそう、前向きな職場でしたね。自然に可能性を追求できた環境でした」と笑顔を見せる。挑戦を楽しむ風土とも言える。
景観改善と海岸保全の両立という静岡県の挑戦は、まだまだ続く。ゆくゆくは、砂浜が想定通りに回復し、撤去し切れない消波堤はその下に潜り込み、姿を消していくはず。富士山への眺望はいっそう改善されていく見通しだ。その先には、どんな世界が広がるのか――。
モニタリングの一環として養浜盛土の現場に出向いた時に目の当たりにした光景を岡田氏が嬉しそうに紹介する。「養浜盛土には、富士山の稜線に合わせ、8度程度のなだらかな勾配を付けていたんですね。するとそこに、高校生の男女が10人ほどやって来てダンスを踊り出した。感動しましたね」。養浜盛土のデザインが、「利用」を引き出した瞬間だ。
まさに、「防護」と「環境」、そして「利用」――。海岸法が掲げる3つの目的である。静岡県の挑戦の先には、これからの海岸の在り方が示される。
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
みなさん、こんにちは。WGリーダーの岡田智秀(日本大学理工学部)です。
今回で3事例目のご案内(予告)になりますが、これまでの記事をお楽しみいただけましたら幸いです。
さて、今回のテーマは、世界遺産富士山の構成資産となった「三保松原」における“富士山の眺望保全”と“海岸防災”という、一般的には対立しがちな両面を議論と技術によって両立させた日本初のプロジェクトになります。
その背景として、日本三大松原としても知られる「三保松原」ですが、構成資産に登録されるにあたり、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議) より、「現在の三保松原からの富士山への眺望は美しくない」と評価され、その要因である消波堤(いわゆる波消しブロック)の撤去が勧告されたことに端を発します。しかし、ご存知のように、消波堤は高波等から背後の市街地を守る海岸防災施設。当地域において欠くことのできない存在です。
そこで、富士山への眺望保全と海岸防災を両立させる日本初の海岸構造物を開発することになりました。手掛かりとなる前例がない中で、行政と専門家らによって“まずはやってみよう”を合言葉に10年超にわたり議論と実践を重ねてきたもので、実は私もその一員として参画してきました。日本の国土を縁取る海岸でいま何が起こっているのか。その最先端の取り組みをぜひご堪能いただきたいと思います!
今回のライターは、ジャーナリズムの世界に入る原点に瀬戸大橋の橋脚の立つ島々を取材した経験があるという茂木俊輔さんです。どうぞご期待下さい!
【before】消波堤の景観改善が勧告された当時の様子/【after】新型海岸構造物と先端撤去後の消波堤[写真提供:静岡県]
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG仕事の風景探訪:事例2【デザインのチカラ】
事業者:(株)hase(ハセ)
所在地:山口県下関市豊北町大字阿川
取材・執筆:土木ライター 三上美絵
編集・撮影(特記以外):山田裕貴(株)Tetor(テトー)
約9割が赤字と言われる日本の地域鉄道。老朽化により取り壊される駅舎も少なくない。駅舎がなくなれば駅に立ち止まる人はいなくなり、ただ電車に乗り降りするだけの通過点になってしまう。そんな中、駅の持つ「公共の場」としてのポテンシャルを引き出すことで再生し、新たな風景を生み出したのが、JR山陰本線の阿川駅の事例だ。プロジェクトの中心人物は、山口県萩市でゲストハウスを経営する(株)hase(ハセ)の塩満直弘代表。生まれ故郷である山口に、新風を吹き込もうとする思いを聞いた。
「何もない田舎」を1軒のカフェが動かす京都市から日本海沿岸を通って下関市に至るJR山陰本線。全長676kmに及ぶ国内最長のローカル線だ。その終盤に位置する無人駅「阿川駅」の敷地に2020年3月、カフェ「Agawa(アガワ)」がオープンした。
建物は、シンプルな白いフレームの直方体。4面ガラス張りの内部からは、眼の前に停車する1両編成の赤いディーゼル電車や、ホーム越しの田んぼがよく見える。
2023年の豪雨被害による山陰本線の運転取りやめの影響で、現在のところカフェも休業しているものの、それまでは近隣や沿線はもちろん、山陽側からわざわざ山を越えて訪れる人もいるほどの人気スポットになっていた。
「常連になってくれた地元のおじさんが『まさか阿川でクラフトビールが飲めるとは思わなかった』と話すのを聞いて、嬉しかったですね」。アガワを企画し、経営するhase(ハセ)代表の塩満直弘さんは、そう言って微笑む。この場所の出現を機に、何もなかった駅前にいくつかの店もでき、都会からUターンで地元へ戻った若者もいるという。
カフェが一つ生まれただけで、地元の人たち自身が「何もない田舎」と諦めていたこの地が、確かな胎動を始めたのだ。
ガラス張りのカフェスペース。レンタサイクルもある
経営する「萩ゲストハウスruco(ルコ)」でインタビューに応じる塩満直弘さん
ありふれたローカル駅の光景に心を奪われて塩満さんは2013年から、萩市内で「萩ゲストハウスruco(ルコ)」を経営している。洋室1部屋、和室1部屋、男女混合ドミトリー1部屋の小さな宿だ。まち中を網目のように流れる用水のように、「ながれ(流/リュウ)まじわる(交/コウ)」から名付けたというルコには、SNSや口コミで情報を得た国内外のバックパッカーが訪れ、交流し、旅立っていく。
収支はうまく回り、経営には問題がなかった。しかし、いつしか塩満さんは心に焦燥感を抱えるようになっていた。客のほとんどは、萩を目的地にしているわけではなく、旅の途中でルコに宿泊するに過ぎない。「通過点のままでいる限りは先細りだ、と感じていました」と塩満さんは振り返る。
少しエリアを広げ、萩から1km圏内に複数の交流拠点をつくれば、旅の目的地としての魅力を底上げできるのではないか。そう考えて適地を探し始めたとき、JR山陰本線の特牛(こっとい)駅で偶然出合った光景が、塩満さんの心を奪った。「海沿いの道を走ってきて、駅に車を停めて外へ出たら、ちょうどワンマンのディーゼル車がホームに入って来て、目が釘付けになったんです。ここまで旅情をそそられる光景はめったにない、と思いました」。
萩で生まれ育った塩満さんにとって、山陰本線は子どもの頃から知っている路線だ。ありふれた海沿いのローカル線の駅に、小さな車両が来て停まり、去っていく。そのごく普通の風景の価値が、突如として意識の表層に立ち上り、そのまま深く刻まれた。
だが、自身がそうであったように、誰もがこの風景を顧みることはなかった。放置された風景が無価値化されていくのは世の常だ。「美味しいコーヒーがある」「ビールも飲めて、人と話せる」など何でもいい、もし駅に「佇む理由」があれば、人々がその価値に気づき、風景が再活性化されるのではないか。そう考えた塩満さんは、JR西日本の地域共生部に相談を持ちかけた。
駅の敷地を活用する新たなスキームを模索地域の小企業が、独自に駅を活用する方法はあるのか。「取り壊す駅舎の跡地に見晴らしのよいカフェをつくる」という塩満さんの提案に興味を持ったJRの担当者たちが、スキームを洗い出してくれた。最も可能性がありそうなのは、JRが自治体に土地を寄付し、自治体がNPOなどに施設運営を委ねる方法で、実績もいくつかあった。ただし、それでは自治体が管理責任を負うことになり、運営の自由度がどの程度になるのかは未知数だ。
検討を重ねた結果、塩満さんの会社であるハセがJRから定期借地契約で駅の敷地を借り、カフェなどの施設を建設・運営することでGOサインが出た。こうして、取り壊し予定リストの上位に挙がっていた阿川駅を舞台にしたプロジェクトがスタート。阿川は、特牛の隣駅で、ほぼ同じ佇まいを持っていた。
旧駅舎を解体・撤去した更地に、JRが待合室を、ハセがカフェと客席のあずまやを、下関市が公衆トイレを整備することになった。駅舎とカフェなどの棟がバラバラに建つのではなく、一体感のあるデザインになるよう、全体の設計をTAKT PROJECT(タクトプロジェクト)代表の吉泉聡さんと建築家の森啓将さんに依頼。キューブ状の既製品のカーポートを三つ置いた施設が完成した。一列に並べるのではなく、少しずつ角度を振っているのは、ホームと棟同士との境界をあえて曖昧にするためだという。
阿川駅周辺は現在、豪雨災害の影響で不通となっているが、以前はJR山陰本線の赤いワンマン電車が走っていた(写真提供:(株)hase)
左から阿川駅の駅舎、カフェ、バーベキュースペース、公衆トイレが並ぶ。中央2棟が「Agawa」だ。駅舎はJR、トイレは市が整備した
阿川駅のホームからは山並みの手前に広がる水田の風景が見渡せる
「幕末の志士を輩出した城下町」だけじゃない、萩を塩満さんがアガワで実現したかったのは、公園のように、誰もがふらりと訪れて、思い思いの時間を過ごせる快適な「場」をつくることだ。それには、公共性の高い「駅」という場所は、格好の舞台だった。さらに、そうした場を増やすことで、生まれ故郷である萩のまちに新風を吹き込みたいとも考えた。
萩は吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋など幕末の志士を生んだことで知られる長州藩の本拠地。その強烈なイメージは今も色褪せず、地域の人々にとってシビックプライドの核をなすものとなっていた。萩を訪れる旅行者も、多くが史跡巡りを目的としていた。だがその半面、まちの個性がすべて「歴史」という切り口のみに集約されてしまう感も否めない。
かつての塩満さんは、一つの価値観だけが絶対であり、それ以外は認めないような保守的なまちの気配に、閉塞感と生きづらさを感じていた。山口県内の大学に在学中、日本を飛び出し、カナダとアメリカで2年を過ごして帰国。人種も年齢も育った環境も、すべて異なる人々の住む多様なまちで過ごした経験から導き出した答えは、「萩にはもっと選択肢があっていい」という思いだった。「選択肢」とはつまり、多様な価値観を受け入れるふところの広さだ。
「史跡だけじゃない、萩には豊かな自然や美しい風景もある。それを生かせる場所をつくりたい」。東京や鎌倉で働いた後、萩へ戻った塩満さんは、海外で体験したようなさまざまな人が訪れ、交流するゲストハウスを開くつもりでいた。手始めに小さなカフェバーを居抜きで買い取り、店を拠点にして人脈を広げた。
「そんな発想は、ここでは通用しないよ」。最初はそう言っていたまちの人たちも、塩満さんの思いを聞くにつれ、次第に応援してくれるようになっていった。空き家をリノベーションし、ようやくオープンにこぎつけたのが「ルコ」だった。
「内と外、新と旧が入り交じる」という価値観に基づくこれまでにない形態の宿泊施設の登場は、萩という古い城下町に大きなインパクトを与えた。ルコの存在はSNSを通して瞬く間に広まり、地元のキーパーソンたちからも、「萩の潮目が変わった」と言われたという。
「萩ゲストハウスruco」の男女混合ドミトリー(上)と宿泊者以外も利用できるカフェラウンジ(下)(写真提供:(株)hase)
駅や公園の「場の魅力」を増す「小さなまちのkiosk(キオスク)」店が消え、電車が減り、若者は出て行った。そんな阿川駅周辺でも、アガワの出現はまちに小さくても確かな輝きを放つ灯火となった。塩満さんは「ここ25年くらい、何もかも失くなるいっぽうだったけれど、新しいものが生まれて嬉しい」という近隣の客の声も聞いた。駅という場所の持つ可能性や波及力が話題になり、メディアの取材も受けた。
ところが、オープン間もなくコロナ禍が勃発。完全に計画が狂ってしまった。「つくるまではよくても、その後に1を10にするのが難しいのだと、つくづく思いました」と塩満さんは本音を明かす。
それでも、コロナ対応の国の補助金を活用し、アガワの近くにもう1つのカフェ「UTTAU(ウッタウ)」をオープン。店舗は、1926年(大正15年)に建てられた空き家をリノベーションした。アガワをきっかけに、阿川の住民の方が空き家の仲介などに乗り出し、連携したものだ。苦境に立たされても、塩満さんは着実に布石を打ち続けている。「民間による公共性の高い事業には、もう少し行政の支援があったら、と思います」とも話す。
アガワに付けたキャッチフレーズは「小さなまちのkiosk」。キオスクとは、公園や街頭にある売店や案内所のこと。何かをしてもいいし、何もしなくてもいい。そんな公園や駅の過ごし方に、ちょっとしたアミューズ(お楽しみ)を提供するスポットになれたら、という思いがこもったネーミングだ。萩や萩の周辺にキオスクが増えていくごとに、塩満さんの描く風景も厚みと広がりを増していく。
阿川駅の待合室。ポリカーボネートで5面を囲み、行き交う人の視線や太陽の光が柔らかく通るようにした。椅子の座面には旧駅舎の梁材を再利用している
通路には、古くからの地元の特産品である「石州瓦」の赤みを帯びたかけらが骨材に混ぜ込まれている
旧駅舎のシンボルだった大イチョウもそのまま遺された
「もっともっとやりたいことがいっぱいある」と話す塩満さん
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【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
みなさん、初めまして!WG幹事の山田裕貴(株式会社Tetor/株式会社風景工房)です。
第1号事例が紹介されたところですが、今回の第2号事例は、山口県下関市にある阿川駅です。
当事例は、萩市内で萩ゲストハウスruco(ルコ)等を経営する株式会社haseの塩満さんが、自身が考える地域の拠点づくりの1つとして立ち上げたのが、阿川駅「小さなまちのkiosk」です。全国で取り壊しが行われている無人駅のリニューアルですが、今までに見たことがない駅の新しいカタチがここにはあります。
山口にいる知人に阿川駅の話を聞いて興奮し、その足で見に行き、感動し、こんな新しい駅を生み出した塩満さんの話を一度聞いてみたい、その一心で今回の記事が誕生しています。塩満さんが阿川駅に込めた公共性とは?思いとは?
今回もライターは、「かわいい土木みつけ旅」でお馴染みの土木ライターの三上美絵さんです。雪降る山陰地方の中、奇跡的に晴天に恵まれた取材、どうぞご期待下さい!
阿川駅とシンボルのイチョウ、背後に続く田園風景
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