仕事の風景探訪 事例10(関東支部)【デザインのチカラ】【自然のチカラ】
事業者:新潟県新潟市
所在地:新潟県新潟市北区
取材・執筆・撮影(特記以外):ライター 茂木俊輔
編集担当:福井恒明(法政大学/仕事の風景探訪プロジェクト・関東支局長)
新潟市北区と新潟県新発田市にまたがる福島潟。「潟」とは一般に、砂州によって外海から分離されてできた湖を指す。広さは、越後平野最大の262ha。東京ドーム56個分にあたる。国の天然記念物である渡り鳥のオオヒシクイやスイレン科の希少植物であるオニバスなどの生息地として知られる。
大雨が降ると、潟につながる13本もの河川や水路から水が流れ込む。それを日本海に逃がす放水路が完成する2003年3月までは、一定の限度を超えると、潟につながる河川を氾濫させてきたばかりか、潟の周囲にも水をあふれ出させてきた。豪雨災害の常襲地帯だったのである。
1998年8月の豪雨災害による被災状況。手前は、福島潟に流れ込む折居川流域の集落。奥には福島潟が広がる(写真提供:新潟県)
河川管理者である新潟県は2003年1月、阿賀野川水系新井郷川圏域河川整備計画を策定。30年に1回程度発生する規模の洪水を安全に流下させることを前提に、福島潟の貯水容量を増やし、遊水地としての機能を高める、河川改修事業を打ち出した。
メニューの一つが、潟外への遊水を防止する湖岸堤の整備・かさ上げだ。計画高水位T.P.+1.7mに堤防余裕高1mを見込み、高さはT.P.+2.7m。のり勾配は3割だ。
ところが当時の設計では、湖岸堤が施設利用を分断する区域が生じる。新潟市が福島潟の一角を中心に整備し、指定管理者が管理・運営する「水の公園福島潟」である。自然と文化の情報発信施設「水の駅『ビュー福島潟』」は堤内に残る一方、「自然学習園」、休憩交流施設「潟来亭」、キャンプ場は、堤外に出る。施設利用を分断する湖岸堤の延長は485mに及んだ。
湖岸堤のかさ上げ前。左手の水辺付近が「自然学習園」、右手のヨシ葺き家屋が「潟来亭」、さらに右手がキャンプ場。
「水の駅『ビュー福島潟』」は、左手の道路手前。当初の設計では、この道路沿いに湖岸堤をかさ上げする計画だった(写真提供:新潟県)
分断の問題が浮上したのは、約10年後。湖岸堤の整備・かさ上げを本格化させていく中、県は関係機関や地元町内会の意見・要望を聞く場や設計案を地元住民に対して説明する場を設ける。その過程で、当初案が抱える利用動線上・景観上の問題が指摘されたのである。
「公園利用者は、湖岸堤を乗り越えるため、階段を上り下りしなければなりません。車いす利用者は、スロープへの迂回を強いられます。また堤内の歩道から福島潟を望むと、目の前に屹立した堤防が立ち現れるため、圧迫感や抵抗感を受ける恐れもありました」
当時の事情を語るのは、県新潟地域振興局地域整備部治水課課長の近藤宏樹氏である。「これらの問題を解決しようと、①誰もが堤内外をスムーズに行き来できるようにする②堤防からの圧迫感や抵抗感を和らげる――という方針の下、設計見直しに乗り出しました」。
設計見直しで実現した地域と治水の「共生の風景」複数案を比較検討のうえ採用したのは、築堤法線を堤外側に大きく食い込ませたうえで、横断形状にも変更を加える設計案だ。当初の設計で3割と定めていた横断勾配は堤内外ともに緩やかなものに改め、例えば堤内側は現況地形へのすり付け勾配を下限値で2%に定めた。この2%という勾配は、「建築家のためのランドスケープ設計資料集」(鹿島出版会)を参考に、平坦性を持ちながらも排水性に支障の生じない数値として取り入れたものだ。
湖岸堤のかさ上げ後。正面に見える「潟来亭」の奥を左右に走る通路が、堤防の天端にあたる。
かさ上げ前後の違いは分からないほど利用動線や景観への影響は小さい(写真提供:新潟県)
2015年3月、設計案を見直した区間で湖岸堤のかさ上げ工事が完成。公園利用者は誰もがストレスなく園内を楽しめる。地域と治水の「共生の風景」が広がる。
緩やかな傾斜を持つ湖岸堤の上では、各種のイベントを開催する。左手、踊りの観客が集まっている側が堤内にあたる(写真提供:新潟県)
それが生まれた背景には、3つの「変化」がある。
まず河川法の1997年改正だ。河川管理の目的に「河川環境の整備と保全」が新たに加わり、河川整備計画を定めるときには関係住民の意見を反映させるために必要な措置を講じなければならなくなった。それから10年以上。「湖岸堤の整備・かさ上げを本格化させる段階では、関係住民の意見に耳を傾ける、という方針を徹底していました」と近藤氏は説く。
次に「ビュー福島潟」の1997年開設である。この施設は、新潟市と合併する前の旧豊栄市が整備計画を描いていた「福島潟自然生態園(現水の公園福島潟)」の目玉の一つ。青木淳建築計画事務所(当時、現AS、東京都港区)が建築設計を担当し、1999年日本建築学会賞を受賞した。
湖岸堤越しに堤内を望む。右の建物が、日本建築学会賞を受賞した「水の駅『ビュー福島潟』」。
左手の建物は、無料で利用可能な休憩交流施設「潟来亭」
「意匠面で優れた施設が、目の前に立つ。しかも、利用者も年間10万人程度と多い。県としては景観や利用動線に配慮せざるを得なかったと思います」。そう振り返るのは、「福島潟自然生態園」の整備計画策定に向け旧豊栄市が設置した委員会で長を務めていた新潟大学名誉教授の大熊孝氏。「ビュー福島潟」では、通算5期目の名誉館長に就く。
最後は、湿地としての福島潟への評価の高まりだ。例えば環境省は2001年12月、「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」の一つとして公表した。さらに2010年9月には、ラムサール条約湿地の登録を推進する狙いで条約湿地としての国際基準を満たすと認められる「潜在候補地」の一つとして選定したことを公表した。ラムサール条約とは、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」と訳される取り決め。湿地の保全とともに、その恵みを将来にわたって維持しながらうまく利用していく「ワイズユース(賢明な利用)」という概念を打ち出す。
福島潟に飛来するオオヒシクイ(左)とコハクチョウ。
「水の駅『ビュー福島潟』」副館長兼レンジャーの佐藤安男氏によれば、オオヒシクイの国内最大の越冬地が福島潟という。
潟内には、ヨシで覆われ、中を見通せない島が、複数散在する。
「それらが、警戒心の強いオオヒシクイに塒(ねぐら)としての安心感を抱かせているのではないか、と考えられます」(佐藤氏)
(写真提供:水の駅「ビュー福島潟」)
1990年代後半から2000年代前半にかけて、河川行政にはパラダイムシフトが起こり、福島潟の価値はいっそう高まった。これらの「変化」が、地域の声に耳を傾ける、という県の方針をもたらしたのではないか――。近藤氏や大熊氏は、そう読み解く。
左から、「ビュー福島潟」の佐藤氏、新潟大学名誉教授の大熊氏、新潟県の近藤氏
豪雨時、湖岸堤で潟内に貯めた水は、放水路を通じて日本海に逃がす。
この放水路は、1966年7月と翌67年8月に起きた豪雨災害をきっかけに、建設省(当時)と県が1968年5月に策定した恒久的治水対策に位置付けた。「ところが、1998年8月豪雨で福島潟に流れ込む河川の流域が被害を受けた。そこで、整備を加速化させた経緯があります」(近藤氏)。
福島潟放水路。左手方向が福島潟、右手方向が日本海。
左から右にかけて3本並ぶ橋梁の奥には、潟内の水位を保つために設置するゴム引布製起伏堰が見える
放水路としての造りが、ふるっている。日本海に水を逃がすときは、ポンプではなく、自然流下に頼る。水位を制御するのは、途中2カ所に設置されたゴム引布製起伏堰だ。
平時はゴム堰を2カ所とも起こし、海水の流入を防ぐ一方、放水路周辺の砂丘地の地下水位を維持するため、放水路内の水位を潟内の水位より高いT.P.+0.6~+0.8mに保つ。潟内の水位は、周辺の水田の水はけを良くするため、日本海との間をつなぐ新井郷川の下流にある排水機場で日本海の水位より低いT.P.-0.4m以下に抑えている。豪雨時は、潟内に雨水が集まり、水位が日本海の水位であるT.P.+0.6mを超える。そこで、ゴム堰を2カ所とも倒伏させ、潟内と日本海をつなぐのである。
この放水路が2003年3月に完成を迎えると、県は河川改修事業に乗り出す。湖岸堤の整備・かさ上げのほか、干拓された箇所の一部掘削による潟の再生や潟内の水を放水路に導くための水門の設置などに取り組んできた。事業は終盤に差し掛かり、目下、水門の設置を進める。
左手の福島潟と正面の新井郷川の交点で建設工事の進む水門。
豪雨時は、新井郷川流域の安全を確保するため、水門を閉め、右手の放水路に水を導く
景観上の問題が生じないように、県は水門の設置にも細心の注意を払う。「3本の門柱の間に設置するゲートの色や門柱の上に置くゲート操作台のデザインを、専門家の協力を得ながら検討してきました」と近藤氏は明かす。「土木構造物のデザインは、地域になじむものでないと。河川改修事業の中で景観面に配慮した湖岸堤のかさ上げは、土木学会デザイン賞2016で奨励賞を受賞しました。水門についても、ヘタなものはできないはずですよ」と大熊氏はくぎを刺す。
近藤氏によれば、放水路の完成以降、福島潟周辺での大きな浸水被害は見られないという。これまでの取り組みで、一定の治水安全度は確保された。
河川行政の立場で近藤氏が心掛けてきたのは、地域の声に耳を傾けることという。「地域住民をはじめとする関係者とコミュニケーションを取ることが、河川行政を進めていくうえで何よりも役立ちます。互いに納得できる落しどころを探ることこそ、私たちの仕事です」。
地域の声に耳を傾けることは、現場を知ることにつながる。それこそ、近藤氏が矜持として胸に秘めてきた点である。「国と向き合うときも、技術者としての誇りを持って、毅然とした態度で臨みなさい――。先輩からはそう教えられてきました。現場を知ることは強みになる。そう確信しています」。
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【支部名】関東支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
みなさんこんにちは。関東支局長の福井恒明(法政大学)です。
今回の「仕事の風景探訪プロジェクト」では、新潟県の越後平野に数多く存在する「潟」のなかでも最大の面積を誇る福島潟の湖岸堤の仕事をご紹介します。
米どころとして知られる越後平野ですが、かつては日本海沿いに連なる砂丘の背後に湿地帯が広がっていました。明治期の地図を見ると潟と呼ばれる無数の水面をみることができます。潟の多くは干拓され、あるいは排水ポンプの整備により農地や市街地になりましたが、いくつかは新潟平野を彩る美しい水の風景として残っています。
今回ご紹介する福島潟は、現在残っている潟の中でもっとも面積が大きいものです。福島潟は国によって干拓が進められましたが、潟の水辺と豊かな動植物の生態系が残され、「水の公園福島潟」として市民の憩いの場となっています。その一方で、福島潟は豪雨の際には周囲の水を引き受ける遊水池の機能を有しています。新潟県は貯水容量を高めるために湖岸堤の整備・かさ上げを計画しました。その際、水の公園の風景を壊さないために細心の配慮を行いました。
災害対策と風景保存の両立をどのように行ったのか、茂木俊輔さんに取材していただきました。
どうぞご期待ください!
写真1 越後平野最大の福島潟
仕事の風景探訪 事例9(関西支部)【デザインのチカラ】【自然のチカラ】
事業者:京都府京都市
所在地:京都府京都市下京区四条堀川町他
取材・執筆:土木ライター 三上美絵
編集担当・撮影(特記以外):山口敬太(京都大学/仕事の風景探訪プロジェクト・関西支局長)
雨水を一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持つ植栽空間、雨庭。
近年多発しているゲリラ豪雨などで雨水が一気に下水へ流れ込み、道路などが氾濫するのを防ぐグリーンインフラとして、全国で注目が集まっている。
京都市は市民の意見を基に緑地整備を進める「市民公募型緑化推進事業」の一環として、四条堀川交差点南東の植樹帯を雨庭として整備した。2018年4月に完成したこの庭が、現在市内14カ所にまで増えた雨庭の嚆矢だ。
「雨水の貯留」という機能を持たせながら、「京都らしい日本庭園」の趣を見事に表現したのは、山田造園社長の山田隆之さん。山田さんとともに、当時を振り返ってみよう。
およそ9.5トンもの水を貯められる枯山水「雨を貯める機能を満足させながら、伝統的な京都の庭園らしい景色をつくる。デザインにあたって最も意識したのは、その両立でした」。山田造園の山田社長は、そう振り返る。
京都市街地の中心部を南北に貫く堀川通と、東西に横切る四条通の交わる四条堀川交差点。オフィスビルや商業ビルの立ち並ぶ京都きっての繁華街だ。京都市が整備する雨庭の第一号は、その交差点の南東側に位置する。
横断歩道につながる歩道を挟んで両側に雨庭が広がり、信号待ちの人たちにいっときの潤いを提供。かつては車が多く殺風景だった交差点が、今では都会のオアシスになっている。
信号待ちの人々が思い思いの位置で雨庭を楽しむ。画面中央の既存樹を残して作庭した(写真:山田造園)
株式会社山田造園代表取締役の山田隆之さん(写真:三上美絵)
雨庭では、貯水機能は主に「州浜(すはま)」と池をイメージした砂利敷きが担う。州浜とは、砂利を敷き詰めた面で浜辺の波打ち際を表現する伝統的な枯山水の作庭手法だ。「通常は地面に直接、砂利を敷くだけですが、ここでは水を貯めるために35cm掘り下げ、栗石を敷き詰めた上に、砂利を敷いています」と山田さんは説明する。
雨水は栗石の隙間に浸透し、ゆっくりと地中に吸収される仕組みだ。表面の砂利はチャートで、粒径約4cmと約15cmの二種類を使い、小さい方で水を、大きい方で波打ち際の岸辺を表現した。
驚いたのは、その貯水能力だ。歩道の両側に広がる雨庭全体で、およそ9.5tもの水を貯めるポテンシャルがあるという。
歩道の一角に、雨庭の構造を説明する現地の案内板がある(写真:三上美絵)
2017年当時、京都市はさまざまな緑地のあり方を模索するなかで、雨庭に注目していた。ただ、雨庭はまだ全国的にも実施例がほとんどなかった。このため四条堀川の雨庭は、やってみてうまくいけば横展開しようというパイロットケース的な意味合いも担っていた。
入札の結果、施工者に決定したのが、京都学園大学太秦キャンパスの雨庭づくりで実績のあった山田造園だ。このとき監修を務め、雨庭の提唱者でもある京都大学名誉教授の森本幸裕さんのアドバイスももらうことになった。
設計は、当初、交差点に面した約220m2の敷地を「緑地として整備する」ということだけが決まっていた。「与条件は既存樹木と、かつて流れていた堀川の遺構である橋の親柱を残すこと。あとはほぼ白紙の状態から、森本先生と一緒にデザインしていきました」と山田さんは話す。
戦後の下水道整備により暗渠となった堀川に、かつて架けられていた綾小路橋の親柱。
雨庭整備のため、敷地の端へ移動した
設計にあたっては、さまざまな制約があった。まず、敷地の歩道側は石垣を巡らせて盛り土がしてあり、地盤が一段高くなっていた。その部分は、地盤の高さを変えられない。というのは、街路樹として植えられたクスの大木があり、別な位置へ移植したり、現在生育している地盤の高さを変えたりすると枯れてしまう懸念があったからだ。
また、道路境界の縁石や、既存の会所枡(下水道管の合流部に設けられた枡)もいじれない。縁石の一部を穴あきブロックに替えて取水口とし、車道に降る雨水を取り入れることから、庭側のレベル設定も難しい。
山田さんは「歩道側の地盤の高い部分を『山の景』、車道側の低い部分を『水の景』とし、両者の境界に水が溜まる州浜と枯れ池を設定することでうまく収めました」と話す。山の景を表現するために、よく京都の山に生えているイロハモミジを築山のてっぺんに植えた。
植栽計画図。車道側を水の景、歩道側を山の景とし、間に州浜を設置。築山には山の植物を植えた
横断面図。右側の地盤が一段高くなっている
縁石ブロックを取り替えて取水口を設けた。右側の車道に降った雨水を左側の雨庭内へ取り込む
こだわったのは、庭づくりで重要な役割を果たす石の選択だ。京都の銘石「加茂七石(かもなないし)」の一つである貴船石(きぶねいし)や、近郊で産出し名刹の庭によく使われる山石(チャート)を採用。州浜の奥には石橋を配置するなど、京都らしさをふんだんに盛り込んだ。「私たちにとっては、京都の庭園を広く紹介できる場としても貴重です。提示された予算は決して潤沢ではありませんでしたが、採算を度外視して在庫の石など、いい材料を使いました」。山田さんの言葉からは、雨庭に掛ける市や造園業界の期待が伺える。
歩道からよく見える位置に、京都の銘石「貴船石」を配置した(写真:三上美絵)
現地で雨庭を眺めると、複雑な条件のもとで針の穴を通すようにしてつくり上げたとは思えない自然な景観が広がっている。「高低差があるほうが、平らなところより庭づくりには向いている。最初に現場を見たときも、制約さえクリアできれば面白いものができるな、という自信はありました。思ったとおり、自慢の庭になりました」と山田さんは胸を張る。
もちろん、視点場も意識した。交差点側を庭の正面とし、縦横斜めから見えるようにしたことで、視覚的に庭に広がりが出る。角度によっては、歩道両側の二つの庭がつながって一つに見える効果も企図したという。
左側の築山から手前の州浜へ向けてなだらかに低くなっている。
築山はもともとの地盤の高さを利用した。州浜と築山の境界には大きめの砂利を敷いて波打ち際を表現
歩道の両側に広がる雨庭。車窓からは角度によって二つの庭が一つに見える
周知のとおり、京都には有名な庭園が集中している。代表的な枯山水である龍安寺の石庭、東山連山を背景とした南禅寺の借景庭園、建築との調和が美しい桂離宮の池泉回遊式庭園…、数え上げれば切りがない。ただ、こうした名園の多くは寺院などの施設に併設される庭であり、誰もがいつでも自由に拝観できるわけではない。その点、四条堀川の雨庭は繁華街の交差点にあり、四季折々の移り変わりを間近に味わえるのが魅力だ。
一般に、街路樹では単一の樹種が線状に植えられていることが多い。しかし、ここでは何十種類もの植物が植えられ、四季ごとに花が咲き、春には新緑、秋には紅葉が楽しめる。近くに暮らす人や通勤通学で通る人はもちろん、インバウンドの観光客からも好評を博しているという。
「多彩な植栽を選択することができたのは、雨庭の貯水機能があったからです」と山田さんは話す。
現地は幹線道路2路線の交差点で、排気ガスや排熱、日射にさらされるため、植物にとっては過酷な生育環境だ。通常ならば、最も乾燥に強い樹種を選ばざるを得ず、選択肢は狭まる。しかし、ここでは州浜の貯水効果を見越して、「乾燥にはそれほど強くないが花が美しい木」を取り入れることができた。ただし、日本庭園の代表的な素材であるものの、極端に乾燥に弱い「苔」を維持するのは難しいと判断し、代わりに芝生を植えたという。
若葉や紅葉、季節の花々が四季折々に道行く人たちの眼を楽しませる
今回の雨庭づくりは、「道路」に降った雨水を「公園」に取り入れる、すなわち雨水が行政区分を越境するという意味でも、発注者の京都市にとって前例のない取り組みだった。道路に降った雨水は通常、側溝の排水口から下水管へと排出される。道路の管理部局と雨庭整備を行う公園部局で管理が跨ることから、雨水の処理の仕方をめぐり、山田さんたちは双方と入念に協議を重ねた。
施工面では「人通りの多い交差点」という条件による難しさもあった。庭の規模は小さくとも、クレーンで大きな石を据えつけるといった大掛かりな作業もあり、朝のラッシュ時は工事をしないなど、第三者災害には細心の注意を払った。一方で、人目に付きやすい場所の特性を生かし、仮囲いに雨庭のしくみや工事の進捗を紹介するパネルを設置してPRしたという。
雨庭が完成してしばらく、山田さんは大雨が降るたびに、いそいそと四条堀川へやってきた。京都学園大学の雨庭では、雨上がりには表面にうっすらと水を湛えた州浜の景色が楽しめたからだ。しかし、四条堀川の雨庭は想像以上に雨水の吸収がよく、全量が見事に地下へと吸い込まれてしまう。貯水機能が存分に発揮されている証だが、山田さんには少し物足りないようだ。「庭の景色としては、水のない枯山水と池泉庭園の両方を楽しめると申し分ないのですが」と苦笑する。
四条堀川の事例よりも前に手がけた京都学園大学太秦キャンパスの雨庭。
大雨の後には州浜の表面に水が見えることもある(写真:山田造園)
竣工から7年が経った今、以前からあった巨木と、新たに植えた低木や芝生、銘石、石橋などの要素がしっくりとなじみ、風景として定着した感がある。その一方で、メンテナンスには課題も残る。
行政による雨庭の管理は街路樹と同様の扱いで、年に数回、定期的に樹木を剪定する。「種類によって花の咲く時期が異なるので、切っていいタイミングと避けたいタイミングがあります。1年を通してそれぞれの花を咲かせてから切るような管理メニューが理想なのですが」と山田さんは残念がる。
「庭というのは、つくって終わりではありません。維持することは、つくることと同じぐらい大切。鎌倉時代などにつくられた古い庭が今も美しいのは、きちんと手入れを続けてきたからです。ここも、それぐらいの価値があると思うんです」。最先端の技術と伝統的な庭づくりが融合した記念すべき第一号の庭。将来へ向けた雨庭づくりのお手本ともなるべき庭の管理には、もう少し予算を投じてもいいのではないか、というのが山田さんの思いだ。
「雨庭をたくさんつくって雨水を地球へ返すことは、自然の水循環に則った素晴らしい試み。それで洪水を防げるなら、美しい緑が街の潤いにもなり一石二鳥ではないでしょうか」。山田さんがそう話すように、雨庭は貯水機能さえあればいいというのでは、あまりにも寂しい。日本が何百年も育んできた庭園文化を受け継ぎ、環境に配慮した雨庭という新しい形で世界へ発信する。その役割は、ここ京都の街角に生まれた雨庭にこそふさわしい。
2018年の竣工当時の様子。
この写真と比べると、7年間でモミジなどの低木が大きく成長したのが分かる(写真:山田造園)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【支部名】関西支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
関西支局長を務めております京都大学大学院准教授の山口敬太です。
今回は京都府京都市、四条堀川通の交差点の歩道上につくられた「雨庭」を取り上げました。
雨庭とは、地上に降った雨水を下水道に直接流すのではなく、一時的に貯留させ、地中に浸透させる機能を持った植栽空間です。雨水流出抑制のほか、水質浄化や暑熱緩和、さらには景観形成に寄与するなど、多面的な効果を果たしています。
京都市内では令和6年度までに14箇所整備され、他都市でも整備が進み始めていますが、そのパイロットプロジェクトとなったのが四条堀川交差点南東角の雨庭です。京都の造園技術を活用して作られた雨庭で、整備から7年が経過していますが、樹木が育って、京都らしさを感じさせる風情と暮らしの潤いを生み出しています。
今回、その施工に関わられた山田造園の山田隆之さんに、当時の設計・施工などのお話を伺いました。山田さんは、数多くの優れたお庭を手がけられておられ、現代の名庭師です(https://yamada-zoen.com/works/)。
そんな山田さんが、京都のまちなかの道路空間に、どのような景色をつくられようとしたのか?
土木ライターの三上美絵さんにご執筆いただきましたので、是非お読みいただければ幸いです。
2020年(施工後2年半ほど)、雨の日に訪れたときの様子です(写真:山口敬太)
仕事の風景探訪 事例8(中部支部)【デザインのチカラ】【コミュニティのチカラ】【土地の記憶のチカラ】
事業者 岐阜県多治見市
所在地 岐阜県多治見市
取材・執筆・撮影:ライター 茂木俊輔
編集担当:大野暁彦(名古屋市立大学/仕事の風景探訪プロジェクト・中部支局長)
せせらぎの音と豊かな緑に包まれながら、お気に入りの場所で過ごす――。駅の目の前なのに、そんな贅沢な時間を過ごせる公共空間がある。JR多治見駅の北口に広がる虎渓用水広場だ。駅北口一帯の土地区画整理事業で用地を確保し、多治見市が2016年7月に供用を開始した。
虎渓用水広場のテラス。大人数で集える大テーブルやカウンターテーブルを設える
広さは50mプール3面相当。総延長約200mにわたって巡る水路には、約2㎞離れた土岐川から引き込む水が自然流下し、所々にテラスや小広場が配置される。テラスにはテーブルや椅子が備え付けられ、リモートワークも可能。無料Wi-Fiの環境がうれしい。
人口10万人規模の地方都市では、駅前と言えば交通広場が目の前にどんと居座り、主役は自動車交通。駅とまちとの間をつなぐ結節点というのが一般的だ。近くに駅ビルや繁華街でもない限り、人の姿は途切れがち。電車の発着に併せ現れては消え、虚ろな空間が残る。
ところがここは、ひと味違う。主役はあくまで歩行者だ。
平日午前は、サラリーマンや若者、それに親子連れが立ち寄り、近くの幼稚園や保育園からは数十人の園児がまとまって遊びに訪れる。駅北口は古くからの商店街で賑わってきた駅南口とは反対方向にあたるが、歩行者の姿が途絶えることはない。
駅北口にこうした広場を整備する構想は、30年ほど前に生まれた。
きっかけは、タネ地の出現だ。国鉄分割・民営化に伴い、駅北口に広がる機関区・操車場の利用が廃止された。市はこれを引き金に区画整理事業を通じた駅北口のまちづくりに乗り出し、1994年度には機関区・操車場の跡地を国鉄清算事業団から取得したのである。
土地区画整理事業前のJR多治見駅北口。右手に北口までの跨線橋が見える(写真提供:多治見市)
区画整理事業の計画図では、駅前の一等地を市は「多目的広場」と位置付けた。「旧国鉄跡地を貴重な公有地としてまちなかに確保し、他のまちにはない独自の広場をつくり上げよう、と計画していました」。区画整理事業の後半、2012年4月から事業完了の2020年3月まで事業担当部門に在籍していた現建設水道部上下水道工務課課長代理の守屋努氏は経緯を説明する。
2000年8月になると、市は多目的広場ワークショップを主催し、区画整理事業区域内の地権者をはじめ、まちづくりに関心を持つ市民らとともに、広場の整備計画を検討し始める。並行して新たな風景づくり計画策定委員会も立ち上げ、駅北口の魅力づくりに向けた検討も進めた。
多目的広場にまず期待されたのは、人が集まるにぎわいだ。
当時、多目的広場の整備計画づくりに携わっていた現都市計画部都市政策課課長代理の小木曽明芳氏によれば、広場内にはイベントを開催できる空間と客席代わりにもなる階段を整備する案を描いていたという。通過点になりがちな駅前を人が滞在する空間にしたいというワークショップ参加者の思いが、計画案ににじみ出る。
多治見市の守屋努氏(右)と小木曽明芳氏
多目的広場の構成要素には「水辺」も見込んでいた。市が2001年3月にまとめた「新たな風景づくり計画書」では、整備方針の一つとして「魅力的な水辺景観がまちをめぐる風景をつくる」を打ち出す。具体的には、水路の整備だ。「広場内にカスケードという段差のある水路を巡らせ、水の躍動を見せる、という想定でした」(小木曽氏)。
この水路に巡らせようとしていたのが、土岐川の水。虎渓用水として100年以上前から利用されてきた河川の水を再び活用した、独自の風景づくりを計画していた。
多治見市内を東西に横断する土岐川。虎渓用水には、この上流から水を引き込む
虎渓用水は農業用水として1902年に開削された。駅北口一帯に位置していた農村集落は江戸時代から水不足に悩まされ、近くを流れる土岐川から水を引き入れようとした歴史がある。その後、土岐川との間を隔てる虎渓山にトンネルを掘り、そこを介して水を引き入れ、地域一帯に用水として巡らせる工事を実施する。しかし、トンネル工事は困難を極め、集落は財産を売り払い、農家は私財を投げ売った、と伝えられる。用水の開削は地元にとって悲願の達成だった。
地域一帯の市街化が進むと、民家の軒先を流れる防火用水として利用されるようになり、そのうち雨水排水路に機能を転じる。それに伴い、暗渠化が進行。住宅地の間を走る生活道路の幅員に車両通行上の余裕を持たせる役割を果たすようになる。
舗装の異なる箇所の下に虎渓用水の水路が通る。暗渠化で道路の幅が広がった
その後、虎渓用水の再生を訴える声が、地元商工会議所からも上がる。「副会頭を務めていた伊藤良一氏が会頭賛同の下、商工会議所内で委員会を立ち上げ、多治見駅北地区の整備方針を独自にまとめたのです」と守屋氏はいきさつを語る。用水の再生には、開削に動いた先人の精神を次世代に伝える狙いを込めていた。
ワークショップで想定していた多目的広場とは何が異なるのか――。
守屋氏によれば、多治見独自の顔をつくり、多くの人が集えるようにしたい、というまちづくりへの思いは共通だが、水景への重きの置き方に違いが見られたという。「ワークショップでは水景を持ちつつも広場の活用に重きを置くのに対し、商工会議所では虎渓用水の再生に重きを置いていたように思われます」。
とはいえ、双方とも地元の声には変わらない。市は互いの案のすり合わせに乗り出す。その仕掛けが、「多治見駅北地区における虎渓用水を活用した水と緑の委員会」の立ち上げだ。2010年2月、伊藤氏を会長に発足。そこから15回にもわたって多目的広場の整備計画を煮詰めていく。
「水と緑の委員会」の様子(写真提供:多治見市)
最終的なコンセプトは、①日常でもイベント時でもいろいろな使い方ができる、いつでも活気ある場所②水と緑が重なり合い、その中に気持ちの良い居場所が織り込まれている場所③多治見ブランドとして他のどのまちにもない、ここだけの駅前風景――という3つ。これらに基づく整備計画案を、小学校区単位の地区懇談会、市広報誌での意見募集、市民500人アンケート、パブリックコメントなどの手続きで寄せられた声も踏まえ、修正を重ねた。
論点の一つは、広場の面積と水辺の面積のバランスである。最終的には、イベント空間としての広場を求める声を受け、広場の面積を当初の整備計画案より広げる形で落ち着いた。「『夏にはビアガーデンを開催したい』というように、ここでやりたいことが具体的に提案されていました。それができないようでは多目的広場を整備する意義が損なわれることから、みなさんがやりたいことがやれるだけの広さを確保することを優先しました」と守屋氏は経緯を明かす。
委員会の運営補助業務は玉野総合コンサルタント(名古屋市、現日本工営都市空間)が担当していた。そこに、オンサイト計画設計事務所(東京都港区)が事業協力者として加わる。多目的広場の設計段階では、かたや設計者として、かたや設計協力で参画することになる2社だ。
「駅北口にはどんな水辺空間がふさわしいのか、事例を委員会で熱心に視察に回り、『星のや軽井沢』のランドスケープ設計を担当したオンサイト計画設計事務所の名が挙がりました。そこで、委員会の運営段階から参画してもらったのです」(守屋氏)。
広場と水辺のバランス確保では、設計協力者の果たした役割は大きい。
「委員会ではさまざまな意見が出ます。しかしオンサイト計画設計事務所では、どんな意見も否定せず、ひとまず提案に取り込もうとする。その作業を丁寧に繰り返し、合意を得ていくのです。その取り組み姿勢には感心しました」。守屋氏はデザインの力に感嘆する。
JR多治見駅側から虎渓用水広場を見下ろす。正面に見えるのが、イベント広場
論点は、もう一つ。多目的広場内での用水再生をどう実現するかという点である。当初の計画は、既設水路の途中にある分岐点から広場まで新たに水路を整備し、分岐点からそこに自然流下方式で水を流す、というもの。維持管理コストを抑える狙いから、動力は利用しない。
ところが、地形がそれを許さない。守屋氏は解説する。
「分岐点と広場との間は水頭差6m程度。途中の起伏を乗り越える必要もある。自然流下方式で水を流すには、広場への流入地点を地面から3m下げざるを得ません。そこからさらに広場内を巡らせようとすると、その形状は極端な逆ピラミッド型になってしまうのです」。
そこで採用を決めたのが、水路の代わりに導水管を用いる方式だ。分岐点と広場の間を導水管で結び、分岐点側からの水圧で水を送り込む。これなら、広場への流入地点は地面から1m下げるだけ。広場内をさらに水路で巡らせるにも、深く掘り下げずに済む。
導水管は公道下に埋設するが、既設水路と並行する区間は暗渠化された水路内に敷設する。分岐点から広場まで導水管の延長は約1000m。委員会から条件付けられた毎秒200ℓの流水量を、この方式で確保することに成功した。広場内を巡った水は、再び導水管を通して既設の水路内に戻り、最終的には土岐川支流の大原川に流れ込む。
虎渓用水広場内の水路は、いくつかの段差が設けられ、水が自然流下していく造り
土岐川から取水するにあたっては、水利権の見直しを求められた。
水利権とは、特定の目的のために、その達成に必要な限度で、河川の流水を排他的・継続的に使用する権利。1896年制定の旧河川法で許可制を取り入れたが、土岐川からの取水はそれ以前から実態があったため、虎渓用水には慣行水利権が認められていた。
ところが、①権利の内容が不明確②見直しの機会がない③取水量報告の義務がない――という理由から、国は慣行水利権を1964年制定の新河川法で定める許可水利権に移行させていた。虎渓用水の再生論議をきっかけに、市は河川法を所管する国土交通省との間で新たな用水の活用方法の協議を始める。
その結果、農業用水としての目的を終えた虎渓用水は、環境用水として再活用が認められることになる。対象施設は、虎渓用水広場だけではない。市が同時期に整備するビオトープや散水用井戸ポンプも含まれる。「環境用水としての水利使用であるため、水辺の環境づくりや暑さ対策という観点から、この2つの施設も加えることにしたのです」と小木曽氏は理由を明かす。
散水用井戸ポンプは、虎渓用水の水路が巡る一帯に立地する小学校前に整備された
虎渓用水の再生に向けた課題をこうして乗り越えながら、2015年7月、多目的広場は整備工事を迎える。市は設計監理業務を設計協力者でもあるオンサイト計画設計事務所に委託。水と緑の委員会の運営補助業務や設計協力業務での実績を評価し、随意契約で発注した。
利用者自ら居場所を生み出せるように椅子は可動式整備工事と並行して、市は2015年9月、多目的広場の設置・管理条例を制定。指定管理者による管理を定めた。「夏のビアガーデンなど市民が開催を望むイベントを開催しやすいように広場利用の自由度を上げるには、地方自治法上の『公の施設』と位置付け、運用については設置・管理条例で定めるのが一番、と判断した結果です」と守屋氏は経緯を説明する。
虎渓用水広場には集客力の高い各種のイベントでにぎわいが生み出される(写真提供:多治見市)
細かな縛りをなくそうという心意気は、可動式の椅子にも表れる。
広場内に備え付けの椅子はどれも、ただ置いてあるだけ。屋外に設置する椅子を盗難防止のワイヤーで地面にくくりつけている例も見られるが、ここでは解放されている。
「椅子を自由に動かせれば、例えば日陰など自分にとって気持ちの良い場所に居場所を好きに確保できます」と守屋氏。多目的広場のコンセプトに登場する言葉でもある「気持ちの良い居場所」は利用者自らが生み出すものでもあるという。
守屋氏はさらに言葉を続ける。「盗難防止に固定するというのが、行政の常識です。夜間だけ片づけるという案も出ましたが、手間がかかる。そこで思い切って、指定管理者が毎日、椅子の数を管理する程度にとどめたのです。市長にこの話を上げると、『椅子を盗むような市民は多治見にはいない!』と全面的にバックアップしてくれました」。
供用開始から9年。虎渓用水広場という通称が定着し、いまでは当初の期待通り、人が集まるにぎわいを生み出す空間として親しまれる。
2025年5月を例に取れば、市内で無肥料・無農薬栽培に取り組む生産者がオーガニック専門のマルシェを開催したり、市出身の女性ラッパーらが音楽・ダンスショーを開催したりするなど、にぎわいづくりに貢献する。指定管理者でもある一般社団法人多治見市観光協会(たじみDMO)も野外本屋を開設。駅北口に多治見独自の顔をつくる。
駅北口には、2015年1月に供用を開始した市の北庁舎に続き、本庁舎も移転してくる予定。供用開始は2029年上半期を目指す。その暁には、虎渓用水広場を新庁舎の前庭と位置付け、より一層のにぎわいを創出する計画だ。地方都市の庁舎は一般に、駅から離れた市街地に立地するが、その常識を覆す異例のまちづくりが控える。多治見独自の顔をつくる仕事は、まだ続く。
JR多治見駅北口には市庁舎が移転してくる予定。写真右奥には虎渓用水広場が広がる
【支部名】中部支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
名古屋市立大学大学院の大野暁彦です。今回は中部からのご案内です。
今やさまざまに創意工夫された駅前空間が登場していますが、今回ご紹介する駅前空間には、用水路が引き込まれています。駅を降りて自由通路から降りると水音が感じられ、日本の中でも有数の酷暑のまちとは思えない玄関口です。四角い広場の中の水は池のような広い水面があるのではなく、細い水路がぐるぐるとまるで渦を巻いているかのように流れており、その間を園路で抜けていくような構成になっています。広い静かな水面の代わりに、流れのある水路が巡り、水音があちこちから聞こえます。水路沿いに展開する小さなテラスは適度な距離感で配置され、いつもたくさんの人が各々で気ままに過ごし長居している姿があります。このように地域の方々に親しまれている様子もまた魅力的です。全体的に掘り込んだサンクン形式の広場ということもあり、駅前でありながらみどりと水路に囲われた落ち着いて過ごせる空間が広がっています。高低差は階段やスロープだけでなく家具としても取り込まれ、1つのテラスの中でも多様な居場所が見られます。
このように大きなランドフォームの設定から水の動き、そして家具といったデザインに至るまで緻密に設計されています。私自身は大学の講義で1年生に必ず見学にいくように促し、私自身も学生とともに何度も訪れ、これでもかというぐらいあちこちを測ったり観察して学んできた場でもあります。今回はそんな綿密に設計された空間の完成に至るまでのプロセスからみていきます。
今回のライターさんは、茂木俊輔さんです。今回の取材で、このプロジェクトの背景にあるさまざまなドラマが浮かび上がってきました。ご期待いただければと思います。
写真1 段差を活かし床の高さやボリュームをコントロールすることで多様な居場所が生まれている(2016年)
写真2 周辺より掘り下げられ緑の中にどっぷり浸かれる(2025年)
第112代土木学会会長のプロジェクトの1つ「クマジロウの教えてドボコン動画配信」では佐々木葉会長の家族のくまのぬいぐるみ“クマジロウ”が、土木学会のコンシェルジュの“ドボコン”に素朴な質問をします。短い動画で土木学会のしくみや活動をお伝えします。あれ?そうなの?なぜ?と今までのあたりまえを考えるきっかけになるかも。気楽にお楽しみください。
番外編・エピソード10:こんなときどの回をみる?第112第土木学会会長のプロジェクトの1つである「クマジロウの教えてドボコン動画配信」も、いよいよこれで最終回です。そこで、これまで9回に渡って配信してきた動画について、どんな時に見たら良いかを紹介します。今まで、視聴いただき、ありがとうございました!また、どこかで逢えるのを楽しみにしています(クマジロウ、ドボコンより)
これまでのエピソードはこちらのリンクから
https://committees.jsce.or.jp/2024_Presidential_Project/kumajiro
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新着・お知らせ2024会長PJ-交流の風景プロジェクトクマジロウの教えてドボコン動画配信WGこのD&Iカフェトークでは、意外と身近にあるこんな働き方、生き方についておしゃべりしています。店主は土木学会でD&Iを考えているチームのメンバーです。
土木に限定せず、でも日頃土木の世界にいる人たちの興味からゲストをお招きして、ラジオ感覚で聴けるトークをお届けします。
根が真面目な土木!なので学会からの申し込みをお願いしていますが、もちろん学会に縁のない方、学生さんなど、どなたでもふらっと、気楽にお立ち寄りください。
D&Iカフェトーク
特別編 第4回 会長特別対談
DEIこそが課題を解決する
異文化のなかで永らく経営トップを務めてこられた
サンドラさんをお招きして、DEIの様々なかたちと
大切さを存分に語ります。
日時 :2025年7月11日(金)17時~18時
ゲスト :サンドラ・ウーさん
株式会社ミライト・ワン特別参与
ESGエグゼクティブアドバイザー
アンカー:佐々木 葉 さん(第112代土木学会会長/早稲田大学)
申込みページはこちら
https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_C3zw19VxSlKlhIqTzT-bHw#/
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新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトD&IカフェトークWG
仕事の風景探訪 事例7(東北支部) 【コミュニティのチカラ】
事業者:松日橋受益者組合
所在地:岩手県気仙郡住田町下有住高瀬地内
取材・執筆・撮影:土木ライター 三上美絵
編集担当:平野勝也(東北大学/仕事の風景探訪プロジェクト・東北支局長)
川が増水したとき、水に抗わずに流れる「流れ橋」。
部材が壊れたり、小枝や枯れ草などが引っかかって洪水を引き起こしたりするのを防ぐ古来の知恵だ。水嵩が元に戻れば、再び架け直して使う。
岩手県沿岸南部の住田町(すみたちょう)を流れる気仙(けせん)川にはかつて、多くの流れ橋が架かっていたという。だが、現在まで残っているのは、松日(まつび)橋ただ一つ。
伝統の灯を守り続ける地元の松日橋受益者組合の金野純一さんと、東日本大震災を機に移住してこの橋に魅せられ、“勝手応援団”を自認する伊藤美希子さん・田畑耕太郎さんに話を聞いた。
流れた橋を架け直す。人力だけ、約3時間で元どおり
4月下旬の土曜日、午前8時半すぎ。集落の人々が徒歩や軽トラックで、三々五々集まってくる。数週間前の雨で流れた松日橋を、自らの手で架け直すのだ。
松日橋は、気仙川左岸の松日地区と右岸の中山地区を結ぶ簡素な木橋。橋長は約40mで、「ザマザ(叉股)」、「桁」、「橋板」で構成されている。釘は1本も使っていない。
「ザマザ」は、木の二股に枝分かれした部分を切り出して作る。二股部分を下にして水中に二つ一組で上下流方向に並べて置き、上部のホゾを「桁」のホゾ穴に差し、楔(くさび)を打ち込む。そうしてできた門型橋脚の上に、長さ10mの杉板4枚を左右が少し重なるように並べて橋とする。
「橋板」の重さと水圧で安定しているため、ふだんの流れではぐらつくこともない。大雨で水嵩が増えると、「橋板」や「桁」が浮き上がってバラバラになり、流れる仕組みだ。あえてホゾ穴を大きめに作り、楔が外れやすくしておくことで、「ザマザ」が残る確率が高まるという。
4月中旬に降った雨で流された状態の松日橋。対岸側の半分が残り、手前側はなくなっている
ワイヤーロープでつながった部材が岸辺に寄せられていた。傷まないように、木をかまして水から上げてある
胴長に身を包んだ男性6〜7人が川へ入っていく。腰まで水に浸かり、まずは「ザマザ」の状態を確認し、流されずに残ったものは位置を調整。破損して使えないものや流されたものは、新しい材に取り替える。
「「ザマザ」にするのは、沢に生えているクルミやヤナギがいんだ、水に強えから。陸(おか)のケヤキなんかでは腐ってしまう」。土手の上で電動ノコギリを使い、「ザマザ」のホゾを彫り出しながらそう教えてくれたのは、松日橋受益者組合の金野純一さんだ。住田町役場のOBで、東日本大震災のときには住田町下有住(しもありす)地区公民館の館長として、地区内に設置された木造仮設住宅団地の支援活動に尽力した。
松日橋受益者組合の金野純一さん。8月4日「橋の日」の野球帽が似合う
川の中にいる人たちが、バラバラになり岸辺に横付けされた「ザマザ」と「橋板」を元の位置まで運ぶ。それぞれの部材はワイヤーで連結され土手の木に繋がれているので、よほどの嵐でない限り、流失してしまうことはない。回収して何度も再利用できるのだ。
杉材でできた「橋板」は長さ10m、厚さは12cmほどある。陸上なら、とうてい一人や二人で持ち上げられる重量ではない。それが、川に浮かべれば楽に運べる。
「そーらっ!よいしょ!」。男たちは掛け声と共に「橋板」を一気に持ち上げ、「桁」の上に載せる。「も少しカミ(上流側)だ。よーし、オッケー!」。陸上で監督する金野さんは、「橋板」の高さや位置を大声で指示し、橋がまっすぐ架かるように導く。昼前には作業が終わり、松日橋は元どおり素朴で美しい姿を取り戻した。
クルミの木が二股になった部分を伐り、「ザマザ」を作る。幹の上部に電動ノコギリでホゾを彫り出す。「ザマザ」用の木は、倉庫にストックしてある
「ザマザ」のホゾを「桁」のホゾ穴に差し込む
厚さ約12cm、長さ約10mの杉板も、浮力を利用すれば楽に運べる
金野さんが陸上から「橋板」の高さや左右のずれをチェックし、川の中の人たちに指示を出す
今回は奥の3枚目と4枚目は流れなかったので、手前の1枚目と2枚目の「橋板」を架けた。
「橋板」を「桁」の上に載せるのが一番力のいる作業。掛け声で力を合わせる
「橋板」は1枚目の右側に2枚目、その左側に3枚目を並べ、4枚目は1枚目と一直線になるように左側に並べる。
この写真は対岸から見たところ。手前の3、4枚目は流れなかった部分だ
松日橋の始まりがいつだったのかは、分かっていない。現地の案内板によると、1698年の元禄絵図には左岸に松日集落と街道、右岸に中山集落や水田が描かれていることから、集落と集落、あるいは集落と水田の往来のために橋があったと考えられるという。
設計図はもちろん、架ける手順を記した書物もない。金野さんも子どもの頃から作業を見て、やがて手伝うようになり、自然に体で覚えていったという。「どう架けると聞かれたち、『いやんびゃ(いい塩梅)に架けんだ』としか言いようがねの」と笑う。
架け直した橋は、2〜3年もつこともあれば、1週間で流れてしまったこともある。「うまく架かったときほど早えんだわ」という人もいた。大変な重労働なのは間違いないが、なんだかみんな楽しそうだ。
渡る人は1日に数人でも、橋がなければ田畑へ行くのに不便だ。それだけではない。流されるたびに「橋架けすっか」と相談し、協力して作業をすることが、地域の絆にもなっていると金野さんは言う。
「自分たちの生活に必要なインフラを自分たちの手で作り、維持管理する。まさしくこれが『土木の原点』でしょう」。この取材を企画した東北大学災害科学国際研究所准教授の平野勝也さんは、撮影に来ていた地元ケーブルテレビのインタビューに、そう答えていた。
SUMITAテレビのインタビューに答える平野准教授
外から来て、松日橋に魅せられた若い人たちもいる。マーケティングプロデュース会社ビーアイシーピー・ハナレの代表を務める伊藤美希子さん、住田町建設課の主査・田畑耕太郎さん夫妻だ。
二人が住田町と関わるようになったのは、東日本大震災後に町が建設した仮設住宅がきっかけだった。直接的な津波被害を免れた住田町は、独自予算で町産材を使った木造仮設住宅を設置し、陸前高田市や大船渡市など沿岸部の被災者を受け入れた。かつて内陸と沿岸を結ぶ宿場町として栄え、物流拠点でもあった住田町は、川や街道でつながるこれらの地域と昔から深い交流があったという。
震災当時、東京の広告代理店に勤めていた伊藤さんは、大学院時代の先輩の後を追いボランティアとして仮設住宅のコミュニティ支援に参加。「仮設住宅へ通う道筋に松日橋があり、いつも美しい橋だなと思って車を停めては見ていました」と振り返る。3年後に、参加していた支援団体「邑(ゆう)サポート」が一般社団法人化すると、理事として伊藤さんの活動はさらに本格化し、住田町へ通う頻度も増えていった。
住田で暮らす田畑さんと結婚してからも別居を続けていたが、コロナ禍を機に伊藤さんが移住。2021年に勤務していた東京のマーケティングプロデュース会社の住田オフィスを開設、2023年に子会社としてビーアイシーピー・ハナレを立ち上げ、現在は地域や行政、地元企業のマーケティング活動支援を行っている。
仮設住宅の支援活動を通じて公民館長だった金野さんと知り合ってからは、SNSでの松日橋の情報発信を手伝うことに。松日橋の四季折々の姿を写真に撮ってアップしたり、橋架けの予定を知らせたりしている。
「松日橋はシンプルで美しいところが好きです。橋架けも、測ったりしないのが逆に効率的だし、ゆるやかなプロセスが寛容で人間らしい。何より、流れ橋を風景として守り続け、誇りに思っている人たちが好き」と伊藤さんは微笑む。
ビーアイシーピー・ハナレ代表の伊藤美希子さん。NPOの活動とマーケティングプロデュース業の“二足のわらじ”で活躍している
一方、建築を専攻する大学院生だった田畑さんは2014年、仮設住宅の入居者が集まることのできる場所をつくろうという研究室のプロジェクトに参加。住田町に通い詰め、翌年には移住して町役場に就職した。
それ以来、人口約5000人の住田町で、役場にただ一人の建築士として公共建築の設計や工事発注、供用後の維持管理、制度設計などを手がけてきた。ほとんど前例のない木造の消防署として建築界の話題を呼んだ「大船渡消防署住田分署」のプロポーザルを実施したのも、田畑さんの仕事だ。地元の人たちの手で昔から受け継がれてきた松日橋にも、個人的に愛着を持っている。
「松日橋は、デザインのお手本だと感じます。ものづくりに携わる人間として、『壊れても直せるもの』を作る精神を常に持っていたい、と思わせてくれる」と話す。
取材当日、伊藤さんと一緒に橋の架け直しを見に来た田畑さんは急遽、助っ人として作業を手伝うことになった。もちろん、初めての経験だ。架橋を終え、川から上がってきたところで「明日は筋肉痛かもしれませんね」と話しかけると、学生時代はラグビー選手だったという田畑さんも「今すでに背中が痛い」と笑った。
流れた松日橋を見る田畑さんと伊藤さん
普(あまね)く請(こ)うと書く「普請(ふしん)」という言葉は、元は仏教用語で、皆で協力して建築や土木の工事を行うことを指した。中国唐代の禅院では、集団による生産労働など一切の行為が互いに協調するなかで、真の自己を究明する修行の意味があったという。日本でも、弘法大師空海が民衆と共に、利他の心をもって満濃池の大工事を成し遂げたのは有名な話。
声を掛け合い、協力しあって繰り返される松日橋の橋普請は、土木の原風景だ。流れては架け直す伝統が、この場所で継承され続けることの意味は大きい。同時に、田畑さんや伊藤さんのような地域外から来た若い世代が、ここで松日橋を含めた地域の在り方を体感し、広く伝えていくことにもまた、大きな可能性が秘められている。
架け直しが完成した松日橋。山あいのまちの風景に素朴な味わいを添えている
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
このD&Iカフェトークでは、意外と身近にあるこんな働き方、生き方についておしゃべりしています。店主は土木学会でD&Iを考えているチームのメンバーです。
土木に限定せず、でも日頃土木の世界にいる人たちの興味からゲストをお招きして、ラジオ感覚で聴けるトークをお届けします。
根が真面目な土木!なので学会からの申し込みをお願いしていますが、もちろん学会に縁のない方、学生さんなど、どなたでもふらっと、気楽にお立ち寄りください。
D&Iカフェトーク
特別編 第3回 会長特別対談
大きな学会と小さな学会 ー両方からみえてくること
中高は女子校で、大学はほぼ男子校。
そこから歩んできた道や、現在会長を務める農村計画学会という
規模の小さな学会の特徴を伺いながら、
大規模な学会のあり方を改めて見つめてみます。
日時 :2025年6月20日(金)17時~18時
ゲスト :斎尾 直子さん
(第22期農村計画学会会長)
https://rural-planning.jp/
アンカー:佐々木 葉 さん(第112代土木学会会長/早稲田大学)
申込みページはこちら
https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_Q1SV4EKkQyqm2LalJ3ZhYw#/
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新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトD&IカフェトークWG
【支部名】東北支部
【事例キーワード】①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
東北支局担当の平野勝也(東北大学)です。ようやく東北の「仕事の風景探訪」を紹介できることになりました。土木マニアの中では、知る人ぞ知る「松日橋(まつびばし)」です。岩手県の沿岸部の少し内陸にある山間の素敵な林業の町、住田町に松日橋はあります。松日橋は住民の手で架けられ、流されてもまた、住民の手で架け直され続けてきた、まさに土木の原点とも言える橋です。
住田町役場の田畑さんにご尽力いただき、さあ取材!と言う1週間前に、「松日橋流れちゃいました」とのお知らせ。もともと、取材に合わせてザマザ(さてこれはなんでしょう?記事本文をお楽しみに)を採る作業するので、それを記事にしてくださいと言うありがたいお話だったのですが、せっかく行っても橋はない。正直、残念。とはいえ、逆に橋が無い姿も流れ橋の醍醐味。気を取り直して、取材を楽しみにしていたところ、なんと前日に、明日、川の水量次第で架け直しをするかもしれないとのお知らせ。持ってます!まさに橋の架け直しを取材させていただけました。
平野は高田松原津波復興祈念公園のデザインをお手伝いしていたこともあり、陸前高田市にはそれなりの頻度で訪れていて、隣町の住田町に松日橋があるというのは知っていたのですが、なかなか昼間に訪れる機会がなく、月夜に浮かぶ幻想的な松日橋しか見たことがありませんでした。ぜひ昼間にちゃんと見たいと思い続けて幾年。念願の昼間初訪問させていただき、しかも、架橋そのものを拝見することができました。自分もお手伝いできるように胴長を持って行くべきだったと反省しつつも、やっぱり土木っていいなと。そして、みんなのために橋を架ける皆さんの楽しそうな姿に、土木屋の根源的な喜びを感じた次第です。
今回のライターも、 「かわいい土木見つけ旅」でお馴染みの土木ライターの三上美絵さんです。さすがライターさんと言う記事に纏めてくださっています。ぜひご一読を!
写真 月夜の松日橋
写真 住田町にはこんな素敵な水路橋もあります
仕事の風景探訪:事例6(四国支部)【技術のチカラ】【コミュニティのチカラ】【記憶のチカラ】
事業者:新居浜市(当初の建設は住友各企業)
所在地:愛媛県新居浜市角野新田町
取材・執筆:ライター 大井智子
取材担当:白柳洋俊(愛媛大学/仕事の風景探訪プロジェクト・四国支局長)
グラウンドに足を踏み入れると、壮大な石積みの構造物が目の前に広がった。愛媛県新居浜市にある「山根グラウンド」の観覧席だ。明治時代に稼働していた別子銅山の製錬所跡地に、1928(昭和3)年に完成した。施工会社ではなく、住友の社員が休日を返上し「作務(さむ)」といわれる労働奉仕により整備されたというから驚きだ。
遠くから見上げると、まるで段々畑を縮めたような眺めだ。生子山(しょうじやま)の斜面に沿ってつくられた観覧席の収容人数は3万人以上といわれている。当初のグラウンドは住友各社対抗の運動会などに利用され、現在は山根公園内の施設として新居浜市が管理し、現役の観覧席として広く市民に使われている。100年近く経過したいまも、ほぼ当時の姿を残している。
階段状の石段は最大で27段。東西方向の延長は最長約120mあり、西側が緩やかに湾曲している。南北方向の奥行きは約30m。石積みは、生子山の斜面の擁壁も兼ねている。
石段は最大で27段ある(写真:白柳 洋俊)
石積みは石同士を組み合わせて固定する空石積み。段ごとに傾斜を設けて積む矢羽根積みとなっていた(写真:大井 智子)
石積みに使われたのは、敷地西側を流れる国領川の角が丸い川原石だ。段ごとに交互に傾斜を設けながら石を積む矢羽根積みで、モルタルなどで目地を固定しない空石積みとなっている。
観覧席の上は、意外と踏み面が広い。場所によって幅員は異なるが、広いところは2m近くありそうだ。市民がお祭りなどを観覧する際は、数家族がゆったり座れる幅があるという。踏み面の表面は土で草が生えており、公園整備の際にモルタルによって固められた箇所もある。
石の形や大きさは一律ではなく、エリアごとに積み方が微妙に違っている印象だ。施工した社員の組ごとに個性が現れているのだろうか。
石の積み方は場所によって施工した人たちの個性が現れている印象を受けた(写真:白柳 洋俊)
踏み面の幅員は意外と広い。西側は緩やかに湾曲している(写真:白柳 洋俊)
新居浜市は、住友の別子銅山を中心に形成された企業城下町だ。グラウンドと観覧席は、昭和初期に住友別子鉱山株式会社の最高責任者を務めた鷲尾勘解治(わしおかげじ)が提唱した「地方後栄策」の一環として整備された。
それにしてもこの広大な観覧席は、どのような経緯でつくられたのだろう──さっそく山根公園を管理する新居浜市役所を訪れて、誕生までのいきさつを聞いた。
斜面地に残された土留めの石積み別子山村(べっしやまむら、現・新居浜市)の山の中で、住友が別子銅山を開坑したのは1691(元禄4)年のことだ。
鉱脈が深くなるにつれて採鉱本部も移転し、1916(大正5)年に東平(とうなる、現・新居浜市)、1930(昭和5)年に端出場(はでば、現・新居浜市)と徐々に山を下りてきた。1973(昭和48)年に閉坑するまでの約300年間、住友による鉱業活動の中で培われてきたのが、石積みの文化だという。
「彼らは平地のない山の中の谷筋を、自分たちで開拓してきました。斜面地を切り土や盛り土で造成し、石積みで土留めして平らな土地を作り、事務所や社宅、学校などを建設したのです。そうした石積み文化のDNAが住友各企業社員の中に代々受け継がれてきたのでしょう」。新居浜市の企画部別子銅山文化遺産課別子銅山産業遺産統括参事の秦野親史さんはこう話し、1枚の航空写真を見せてくれた。
写っていたのは、段々畑のようにびっしりと続く石積み群。かつて、この場所に社宅が並んでいたことを教えてくれる。2023(令和5)年12月、東平地区で大阪・関西万博の「住友館」建設用に大規模に樹木が伐採された時に、山の斜面に呉木住宅の石積みの遺構が現れたのだという。
樹木が伐採された後、東平の斜面地の社宅跡に土留めの石積みが現れた(写真提供:新居浜市)
明治時代に開拓された東平の斜面地。社宅や学校、事務所などが立っていた(写真:原 茂夫)
新居浜市の別子銅山文化遺産課課長の土岐幸司さんは次のように話す。「住友別子鉱山の鷲尾勘解治は、鉱石を掘り尽くした後も新居浜が発展するように様々な都市基盤整備を実施しました。鉱業から工業への移行を見越し、海岸沿いに埋立地を造るなどのインフラ整備のほか、銅山なき後の都市計画を提唱したのです」
山根グラウンドと観覧席も福利厚生施設の一つとして建設された。閉山後、住友の協力のもと、1986(昭和61)年、昭和天皇の在位60年を記念して計画された健康運動公園として、グラウンド(観覧席を含む)と社宅跡を新居浜市が整備した。2009(平成21)年には「山根競技場観覧席」として国の有形文化財に登録されている。
昭和、平成、令和時代と1世紀近く存続できた理由社員がボランティアでつくった石積みの観覧席が、なぜ1世紀近くも当時の姿をとどめて現存できたのだろう──そんな疑問に土岐さんは、「完成当初からずっと現役で使われ続けてきたからではないでしょうか」と答えてくれた。
もともとこの場所には1888(明治21)年から1895(明治28)年までの8年間、山根製錬所があった。当時の産業遺構として唯一残るのが、生子山山頂の「旧山根製錬所煙突」だ。グラウンドを含めた周辺一帯は、赤レンガの煙突があることから、「えんとつ山」の愛称で市民に親しまれてきたという。市民活動も盛んで、任意団体の「えんとつ山倶楽部」が山道を整備したり、イベントを企画したりと、積極的に活動している。グラウンドや観覧席もえんとつ山と一緒に、日常の身近な存在として市民に愛されてきたようだ。
観覧席の上に見えるのは大山積神社。生子山の山頂に見えるのが「旧山根製錬所煙突」(写真:大井 智子)
山根グラウンドの観覧席が、大きな存在としてスポットライトを浴びるのが毎年10月に開催される「新居浜太鼓祭り」の時だという。地区ごとに豪華に装飾した太鼓台を約150~200人の男性が担いで競うお祭りで、「特に10月17日は『上部地区山根グランド統一寄せ』として山根グラウンドに20台ほどの太鼓台が集結します。その様子を見ようと、全国から集まった人たちが観覧席をびっしりと埋めるのです」。こう熱く語るのは、新居浜市建設部都市計画課技幹の庄野仁規さん。スマートフォンからとっておきの写真を見せてくれた。
すごい。米粒みたいな人、人、人で観覧席が埋まっている。確かに、収容人数とされる3万人は集まっていそうだ。
市政80年を記念して夜間開催された年の、「新居浜太鼓祭り『上部地区山根グランド統一寄せ』」。
観覧席が多くの人で埋め尽くされた(写真:庄野 仁規)
2024(令和6)年の「上部地区山根グランド統一寄せ」の様子(写真:庄野 仁規)
お祭り以外でも、グラウンドは地域の運動会や野球、グランドゴルフなどに使われるという。つい先日は、桜の花見客で観覧席がにぎわっていたようだ。
桜の満開時期は、花見客で観覧席がにぎわう(写真:白柳 洋俊)
それにしても、これだけ大規模な空積みの石積みが原型をとどめているのは、構造面に何か秘密があるのだろうか──。
秦野さんによると、「これまで石積みが大きく崩れたことはなく、2001年に安芸灘で発生した芸予地震でも大きな被害は発生しなかった」という。「1つの段の踏み面が広く、奥行きが長いことや、勾配などと関係があるのかもしれないですね」と推察する。
庄野さんは、「どれだけ土を盛っているのか、背面の土量によってかかる土圧は大きく変わってくるはずです。ただ空石積みなので、構造計算で検討することはできません。すべて経験則で積んだのでしょう」という。
普段は鉱山に従事する一般社員が、石工顔負けの施工技術を備えていたとは──
取材当日、新居浜市役所の職員の方々が集まって話を聞かせてくれた(写真:白柳 洋俊)
土岐さんは、資料を広げて別子銅山の変遷について説明してくれた(写真:大井 智子)
天皇陛下御在位六十年記念健康運動公園の指定を受け新居浜市で改修工事を実施した。
現地に移動して観覧席を見学すると、改修の足跡を見ることができた。石積みの間からは、水抜き用のパイプが顔をのぞかせていた。また、観覧席は大きく上部と下部に分かれ、間に幅員の広い通路があるが、そのすぐ下の段に、排水溝とその蓋のグレーチングが横断方向に延びていた。
写真上から2段目の石積みに、水抜き用のパイプが挟まれていた(写真:大井 智子)
石積みの上部と下部の間にモルタルで舗装された通路が配置する。
すぐ下の段に排水溝とグレーチングが横断方向に延びていた(写真:大井 智子)
建設当初の観覧席は今よりも席数が多く、北西面を除き馬蹄形にぐるりとグラウンドを囲む形をしていたという。「おそらく体育館を建設する際、グラウンドとの間にある観覧席を撤去したものと思われます」(庄野さん)。
創建当初は、写真右側に見える体育館とグラウンドの間に、観覧席が続いていた(写真:大井 智子)
見学する我々の誰よりも“長寿”な石積みを眺めているうち、様々な想像がふくらんできた。共に取材に臨んだ愛媛大学の大学院理工学研究科准教授の白柳洋俊さんは、「もしかすると、創建当時は上部と下部の観覧席を隔てる通路はなく、上から下まで石積みが連続していたのではないでしょうか」と目を輝かせる。
あとから1段分を取り除いて擁壁を補強し、さらに使い勝手がいいように広幅員の通路を整備したのだろうか。有力な証拠として白柳さんが示すのが、上部の一段目の石積みだ。ほかの段に比べると蹴上げ部分がはるかに高い。もしかするとそうかもしれない……。
だが残念なことに、観覧席の詳しい資料や図面はほぼ残っていない。じっとたたずむ石積み群は、静かに我々のロマンをかきたてていった。
通路右側に見える上部の観覧席の一段目は、ここだけ石積みが高く積まれていた(写真:大井 智子)
この堅牢な観覧席を背に送り出した、住友各企業の社員による勤労奉仕について知るために、次に、グラウンドに隣接する「別子銅山記念館」を訪ねた。
別子銅山が閉山した2年後の1975(昭和50)年に建設された記念館で、住友グループ発展の原点を伝える様々な資料を展示している。
別子銅山記念館で館長の神野和彦さんと主任の秋山将さんに話を聞いた(写真:白柳 洋俊)
別子銅山記念館で館長を務める神野和彦さんは、「元禄時代から採鉱を続けてきた住友は、300年以上にわたってこの地域にお世話になってきました。いずれ山の鉱脈が尽きた時、町が衰退せず今後も発展し続けるよう、鷲尾勘解治は様々な対策を講じてきたのです」と説明する。新居浜市職員の土岐さんの話にも出てきた通りだ。
鷲尾勘解治は、当時、無尽蔵と思われていた鉱脈について、昭和初期に厳格な鉱量調査を実施した。その結果、「約20年後に鉱脈が尽きる」という結論に達し、これを公表。新たに工業都市として新居浜が発展するために、新居浜港の築港と海岸部の埋め立てや、都市計画道路の整備に着手した。さらに、従業員が快適に生活できるように、山根製錬所の跡地に住宅を新設し、「山根グラウンド」などの福利厚生施設を充実させた。
もともと鷲尾勘解治は高校・大学時代に寺で禅宗の修行を積んでいた。住友本店に入社し別子鉱業所勤務になってからは、まずは現場を知る必要があると考えて、3年間身分を隠して一坑夫として坑内労働を体験したというから、すごい。
別子鉱業所支配人を経て住友別子鉱山専務取締役に上り詰めた鷲尾勘解治は、常に労働者と地元の人たちの福祉に心を砕き、会社と地元の共存共栄に向けて事業の経営に当たったという。「住友の理念として受け継がれているのが、『自利利他公私一如』という言葉です。住友を利するとともに、国家や社会を利するという考えです。公私は相反するものではなく、一つのものという意味です」(神野館長)。
昭和初期の山根グラウンド。新居浜の住友連系各社従業員で組織する「住友予州親友会」の大運動会が、毎年11月に開催されていた(写真提供:別子銅山記念館)
観覧席の上段には別子銅山の守護神の「大山積神社」が、採鉱本部の移転と同時に遷宮されている。祭事の際は、社員が力士を務める奉納相撲が行われていた。若かりし第24代式守伊之助が行司を務めたこともある。現在、別子銅山記念館が建つ場所に、以前は大きな土俵があったという。さらに別子銅山記念館の裏手には、相撲を楽しむための観覧席がいまも一部、残っている。山根グラウンドの観覧席と同じ石積みだ。
別子銅山記念館の裏手に、相撲を観戦するための石積みの観覧席(写真正面奥)が残っていた(写真:白柳 洋俊)
住友各企業の社員は、山根グラウンドや観覧席だけでなく、これら大山積神社の敷地や相撲場も全てつくりあげたという。別子銅山記念館で主任を務める秋山将さんは、「当時は重機などありません。まず土地の整地から作業を始め、さらにトロッコ用の軌道をつくり、近くの国領川から川原石を集めてトロッコで運び、人力で石積みの観覧席をつくったのです」と話す。
今も住友グループの各企業の社員は研修として、別子銅山記念館で歴史を学んだあと、当初の鉱山本部やまちの遺構が残る山の中を登山するという。登山道は冬の間は閉ざされ、春の点検で石積みが雪で崩れていると補修したりする。「最初に掘られた重要な坑口が一部崩れていた時は、大きく改変しないように昔の絵などを参照しながら2001年に補修しています」(神野館長)。
ちなみに、新居浜市の小学生はふるさと学習で鉱山の歴史を学び、中学生になると旧別子山村を目指して登山するという。また、えんとつ山近くにある愛媛県立新居浜南高等学校では、ユネスコ部が別子銅山の近代化産業遺産をテーマに25年以上にわたって調査、研究を続けているという。教員現場でも企業城下町としての成り立ちを学ぶ取り組みが続いている。
劇場の跡。基礎となる擁壁が城壁のように積み上げられている(写真提供:別子銅山記念館)
採鉱課長の住宅跡の石積み(写真提供:別子銅山記念館)
測候所の跡地にも石積みが残る(写真提供:別子銅山記念館)
新居浜市役所で土岐さんに聞いたように、採鉱本部の拠点は大きく2回移転した。「鉱山は山の中で掘るので、最初は町づくりから始まります。動物たちが棲む狭い谷筋で斜面を切り開いて、事務所や採鉱場、製錬所、住居を建て、さらに学校、病院を建設して町ができていくのです」(神野館長)。まちづくりと同時に、産出した銅を山の中から運ぶための鉱山鉄道や道路なども徐々に整えられていった。
秋山さんは、「当時の人たちは機械がないので何をするにも手づくりでした。今でいう日曜大工で手先も器用でした」という。自宅をつくるのに、山の中で崩れないように石垣を積み、修理も補強も自分でやる。「日常が作業です。そもそも山の中での採掘は暗闇の中を手作業で掘っていくので、手先が器用でないとできません」(秋山さん)。
それら住居や娯楽施設としての劇場の跡は山の中に現在も残っている。「まるでお城の城壁です」と秋山さん。山の中の石積みは、伊予の青石と呼ばれる「緑色片岩」が多く使われた。割れると板状になる石で、地元で多く産出されるものだ。
これらの手作業が集結し、技術の粋を集めてつくられたのが山根グラウンドの観覧席というわけだ。まさに、別子銅山の歴史の中で300年かけて築き上げてきた、石積み文化の集大成だといえる。
意気込む我々に、秋山さんは、「石積みの観覧席をつくったというよりも、まずはグラウンドをつくることが目的だったのでしょう。観覧席は、グラウンドでの競技を楽しむ場所としてつくったのですね。木は腐るので、素材に石を選んだ。木であれば朽ち果てて、観覧席は現在まで残ってなかったかもしれません」と、感慨深げに話す。
小学校にも線路跡にも観光地にも石積みが山根グラウンドと国領川を挟んで200mほど西側にも、同じような石積みの観覧席があると聞き、さっそく市職員の人たちと現場に向かった。
新居浜市立角野小学校のグランドに面して、観覧席は学校の敷地外にそびえていた。山根グラウンドよりも規模は小さいが、同じように丸い川原石が積まれている。角野小学校の卒業生でもある新居浜市役所の庄野さんは、「運動会やお祭り集会として太鼓台が小学校のグラウンドに入る時など、観覧席として使われています」と話す。
新居浜市立角野小学校のグラウンドの奥にも石積みの観覧席があった(写真:白柳 洋俊)
草が生い茂っているが、山根グラウンドと同じような石積みだ。小学校の敷地外にありグラウンドとは柵で仕切られている(写真:大井 智子)
庄野さんは、「新居浜市では、深い山の中でも、多くの人でにぎわう観光地でも、本当に各地で石積みを目にします」という。現在は廃線となった旧別子鉱山鉄道の軌道にも石垣があり、採鉱本部の跡地を活用した観光地「マイントピア別子」にも多くの石積みが残っている。
マイントピア別子の端出場エリアにある旧端出場水力発電所に残る石積み(写真提供:新居浜市)
マイントピア別子の東平エリアにある産業遺構。レンガの石積みの遺構は、東洋のマチュピチュと称される(写真提供:新居浜市)
「有名な近代化産業遺産にも多くの石積みが残っているので、今回の取材で山根グラウンドの観覧席がフォーカスされるとは、実は思っていませんでした」とはにかみながら打ち明ける。
幼いころの庄野さんにとって観覧席は、「当たり前のように存在する日常の遊び場でした。段々の石積みで鬼ごっこをしたり、散歩したり。グラウンドで野球の試合があれば、観覧席に座ってご飯を食べたりしました」と懐かしむ。
角野小学校の観覧席を一緒に見学した新居浜市建設部都市計画課副課長の三並真由美さんは、「新居浜市は住友各企業によって町が発展してきました」とまちづくりについて話してくれた。
新居浜では、まず山の中に町ができてインフラが整備された。別子銅山の中心拠点が山を下りて本格的な港が整備されると、海岸沿いに商店街が栄え、さらに道路や鉄道が充実していく。「一般的なまちづくりでは鉄道駅を起点に整備されて発展するケースが多いですが、新居浜は違いました。居住地などの拠点をつなげていくクラスター型コンパクトシティのような整備手法は、今後の人口減少社会に向けたまちづくりの大きな参考になると思っています」(三並さん)。
将来に向かって観覧席を継承していくためには、大きな課題もある。
庄野さんは、「石積みが崩れた時に直せるような石工職人が、いまはいないことです」と打ち明ける。普通の石積みであっても施工できる職人はほとんどいないという。材料も、同じような石を調達することは難しい。これまで石積みが大きく崩れたことはないが、何かで外れた石を見つけた時は保管しておき、一部、崩れたところに使うなど工夫している。
最後に庄野さんは、「市民にとっては親しみ深く、日常の生活に寄り添う大切な場所です。300年の石積み文化を伝える観覧席として、今後もできる限り維持していきたいと思っています」と力強く語ってくれた。
観覧席の全景(写真:白柳 洋俊)
夕方になると野球を楽しむ少年たちがグラウンドに集まってきた(写真:大井 智子)
散歩を楽しむ人や、犬を連れた人を多く見かけた(写真:大井 智子)
石積みには、隣接する国領川の川原石が使われた(写真:大井 智子)
階段の上に見えるのが大山積神社。太鼓祭りの時は群衆による自重がかかり過ぎないように神社境内の入場を規制するという。取材には愛媛大学の学生が協力してくれた(写真:大井 智子)
【支部名】四国支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
四国支局長を務めています愛媛大学の白柳洋俊です。今回は、愛媛県新居浜市にある石積みの観覧席「山根グラウンド観覧席」についてご紹介します。
山根グラウンド観覧席は、1928(昭和3)年に住友の鉱山職員たちが勤労奉仕というかたちで手作業により築き上げた施設です。最大27段、延長約120m、約3万人を収容できる壮大な構造物は、100年近く経った今も現役で使われ続けています。その背景には、企業城下町としての新居浜市を支えてきた住友の、別子銅山を通じて受け継がれてきた技術力や、地域とともに歩む姿勢が息づいています。
取材に訪れた日も、観覧席では愛犬と散歩する市民の姿や、グラウンドでは元気にキャッチボールする子どもたちの姿が見られました。こうした日常の風景こそが、この観覧席が長く愛され、大切にされてきた理由の一つなのだと感じました。
本記事は、ライターの大井智子さんが執筆しています。丁寧に現地を歩き、石積みに宿る記憶や、そこに息づく人々の暮らしをあたたかな眼差しで綴って下さいました。読み進めるうちに、山根グラウンドがなぜ、どうしてつくられたのか——そんな背景が、まるで謎解きのように少しずつ明らかになっていきます。ぜひ、ご覧ください。
写真1 地域最大の祭り新居浜太鼓祭りの舞台にもなります(写真提供:新居浜市)
写真2 昭和初期の山根グラウンドの様子(写真提供:別子銅山記念館)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG公益社団法人土木学会(会長 佐々木葉)は、DEI(ダイバーシティ(多様性)、エクイティ(公平性)、インクルージョン(包摂))に関する土木学会としての方針を明言した「土木学会DEI行動宣言」を策定・公表しました。
土木学会は2015年に「土木学会ダイバーシティ・アンド・インクルージョン行動宣言」を発出し、これに沿ってD&Iの推進に取り組んできました。以来10年の間に、社会におけるD&Iに関する理解の広がりや深化が進んでいることなどを踏まえ、2024年度に第112代会長による「土木学会の風景を描くプロジェクト」の一環として「D&I行動宣言フォローアップWG」を設置し、社会の変化等に対応して2015年の行動宣言を改訂するための活動を行ってきました。
D&I行動宣言フォローアップWGにより作成された改訂案を理事会における複数回の議論を経て、2024年度第6回理事会(2025年5月16日開催)において新たな行動宣言が承認され、2025年6月4日に「土木学会DEI行動宣言」として公表いたしました。
行動宣言本文ならびに関連資料は、土木学会DEI委員会のホームページに掲載しています。
このD&Iカフェトークでは、意外と身近にあるこんな働き方、生き方についておしゃべりしています。店主は土木学会でD&Iを考えているチームのメンバーです。
土木に限定せず、でも日頃土木の世界にいる人たちの興味からゲストをお招きして、ラジオ感覚で聴けるトークをお届けします。
根が真面目な土木!なので学会からの申し込みをお願いしていますが、もちろん学会に縁のない方、学生さんなど、どなたでもふらっと、気楽にお立ち寄りください。
D&Iカフェトーク
特別編 第2回 会長特別対談
“多様”があたりまえの環境に - 学会という場ができること
10年まえにクオータ制をとりいれた
情報処理学会の森本会長をお招きし
異なる経験の交流や、未来のインフラについて伺います
日時 :2025年6月10日(火)17時~18時
ゲスト :森本 典繁 さん
(第32代情報処理学会会長
/日本アイ・ビー・エム(株)取締役副社長 執行役員 最高技術責任者兼研究開発担当))
https://www.ipsj.or.jp/
アンカー:佐々木 葉 さん(第112代土木学会会長/早稲田大学)
申込みページはこちら
https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_tLlSXCVqQSqiakhd7tDS9g#/
これまでの開催概要とアーカイブはこちら
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトD&IカフェトークWG
仕事の風景探訪:事例5【デザインのチカラ】【土地の記憶のチカラ】
事業者:長崎市中央総合事務所地域整備2課
所在地:長崎県長崎市
取材・執筆:茂木俊輔
編集担当:高尾忠志((一社)地域力創造デザインセンター代表理事/仕事の風景探訪プロジェクト・九州支局長)
撮影(特記以外):茂木俊輔(前掲)
何の変哲もない道路だと思ったら、大間違いだ。場所は、長崎市の中心部に伸びる紺屋通り。手前には寺社が立ち並ぶ寺町通りが走り、奥には石橋群で知られる中島川が流れる。市は一帯を対象とする道路修景計画を策定し、その中で景観舗装に関する方針を決定済み。一帯の将来像である「和のたたずまいと賑わいの粋なまち」を景観舗装のテーマに掲げる。この計画に基づき、市はこの紺屋通りで道路改良事業を実施し、2023年12月に工事を終えた。
なるほど舗装に目をやると、車道は白の骨材を30%ほど混ぜたアスファルト舗装のウォータージェット仕上げ、歩道は透水性の平板舗装。通常のアスファルト舗装より多くの予算を投じ、景観舗装のテーマに見合う舗装材をあえて採用している。この道路改良事業の見所はしかし、そこだけではない。最大の見所は、歩車道を分ける「白線」にある。
この「白線」、舗装止めの役目を果たす縁石と歩車道を明確に区分する区画線を兼ねている。
道路改良事業を担当する道路管理者の立場で言えば、歩車道で異なる舗装材の間に舗装止めの縁石を置きたい。一方、交通管理者である警察の立場で言えば、歩車道を明確に区分するため区画線を描きたい。双方の言い分をそのまま形にすれば、縁石と区画線は並存することになる。
ところがここでは、そうはならずに、縁石と区画線が一つにまとめられた。具体的には、150mm幅の白い縁石を舗装止めとして埋め込んだのである。ドライバーや歩行者などの道路利用者からは、それはただの「白線」にしか見えない。縁石と区画線の兼用である。
その立役者が、長崎市中央総合事務所地域整備2課で道路改良事業を担当した作本裕介氏だ(写真右)。2013年度以降10年以上にわたり景観専門監として公共事業の監修と職員の育成に取り組んできた地域計画家の高尾忠志氏(写真左)は「作本さんだから、できた。地元警察との協議の場で、もう一押し、もう二押し、粘っていましたからね。道路行政の現場でも担当者が踏ん張ると、こんなことも実現できるんですよ」と評価する。
作本氏がこの道路改良事業を担当することになったのは、2023年4月。前年度からの継続事業を前任者から引き継いだ。対象区間は、寺町通りから中島川沿道までの約133m。車道を片側1車線・幅員4.0mで確保したうえで、その両側または片側に歩道を整備する計画だ。
道路修景計画では紺屋通りを自動車・歩行者の交通量の多さから「歩車分離の道路」と位置付けていた。この計画に基づき歩車分離を徹底しながら、道路修景の観点から、歩車道の舗装を通常のアスファルト舗装から冒頭に紹介したような舗装材・仕上げに改めたのである。
(写真提供:長崎市)
ただ歩道と言っても厳密には、歩行者や自転車の通行スペースにあたる路側帯だ。歩車分離の必要性はあるが、道路構造令で定める最低幅員を確保できないため、車道の際に区画線をはっきり描くことで、歩行者や自転車の通行スペースを車道とは明確に切り分ける。
引き継ぎを受けた時には、地元警察との協議はまだこれからという段階。この段階では、作本氏はごく当たり前のように、舗装止めとしての縁石と歩車道を区分するための区画線を並存させる案を警察担当者に投げ掛けた。「ところが、それではドライバーが縁石と区画線を見間違う恐れがあるから、縁石の上に区画線を描いてほしい、と跳ね返されました」(作本氏)。
釈然としないのは、作本氏だ。縁石の上に区画線とは、屋上屋を架すかのよう。「地元警察との協議で詰めるべき点がまだ積み残されていたところに、この申し入れです。正直、困りました。警察との協議は本来、施工会社を選定するまでには終えておくべきものです。工事発注に向けた準備作業を並行して進めていただけに、短期間で知恵を絞る必要に迫られました」。
交通管理者側の言い分をそのまま受け入れることも可能だ。法令上も予算上も、問題はない。「しかし、……」。作本氏はここに来て、ある思いを巡らすことになる。
ものづくりは、こだわることで良くなる――。自身の体験として、市中心部に2017年11月に開園した出島表門橋公園の整備事業がある。公園行政を担当するまちづくり部みどりの課(当時)に配属されていた時期に携わったプロジェクトだ。「まちなかに立地することから景観面で一段と配慮して整備した公園です。ここでも舗装にはこだわりました。細部までこだわることで出来上がりの質が上がることを、この時に実感しましたね」。作本氏は当時を懐かしむ。
(写真提供:長崎市)
こだわりのポイントは大きく2つある。一つは、公園部分と歩道部分の舗装に同じ舗装材を用いたうえで、管理者が異なることから目に付きがちな境界は点字ブロックを並べることで自然な形に納めた点だ。もう一つは、舗装材の向き。表門橋を中心とする公園であることを強調する狙いで、舗装材には橋に向かうかのように45度の角度を付けて敷き詰めたのである。この2つに共通するのは、公園利用者や歩行者にとって歩きやすく心地良い空間にしよう、という心意気だ。
歩きやすさと心地良さは紺屋通りの道路改良事業でも求められた。言い方を換えれば、道路構造令上の歩道を確保できない中での歩車分離の徹底と景観舗装のテーマに見合う舗装材の採用である。この2つを実現しようとするなら、縁石の上に区画線を描くのは決して悪くはないが、どうにもムダな感じが付きまとう。その自らの違和感に、作本氏はこだわった。
そこで生まれたのが、縁石として白い部材を採用し、その天端を区画線に見立てる、というアイデアだ。このアイデアには出島表門橋公園の整備事業でもタッグを組んだ高尾氏もすぐに同意する。「警察側の言い分をそのまま受け入れられないときは、道路管理者側の言い分と折り合いをつけ、第三のアイデアとして示す必要がある。まさに、その第三のアイデアです」。
幸い、白い縁石もカタログ掲載の商品として調達が可能だった。「ただ幅は200mmだったため、それを区画線の幅に合わせて150mmに加工してもらう必要はありました。それでも割り増し費用は掛からず、通常の縁石と同程度の費用に収まる見通しでした」(作本氏)。
このアイデアが、決定打になる。地元警察との協議は2024年5月、作本氏が担当してから約1カ月で無事に終わる。実はそこには、市内の前例も力を貸している。
場所は、中島川に架かる眼鏡橋の詰広場交差点。眼鏡橋と一体で見られる場所であることから、交差点を石舗装で仕上げる方針を立て、横断歩道の白線も白い舗石で表現した例である。
「こうした前例を説得材料として利用できました。過去にも同様の実績があったからこそ、縁石と区画線を一つにまとめるという提案を受け入れてもらえました」。作本氏は協議成立の背景を分析する。
施工期間は2024年4月から12月までの8カ月間。同年8月には作本氏が現在所属している部署である水産農林部水産農林整備課に異動したため、同時に中央総合事務所地域整備2課に新たに配属された馬場雅俊氏が施工期間中に後を引き継いだ。
「区画線は路面塗装なので、次第に消えていきます。しかし白い縁石なら、区画線として消えてしまうことがない。費用対効果は案外高いかも」。馬場氏がそう指摘すると、作本氏も「確かに。この『白線』なら消えないな」とうなずく。想定外のメリットだ。
「このプロジェクトでは少しの工夫で達成感を得られました。そうした達成感を味わえたことが、次に担当するプロジェクトでのモチベーションにつながります」。プロジェクトに携わる醍醐味を作本氏はそう振り返る。好循環の源は、「少しの工夫」にある。
その工夫を生み出すのは、「まちを良くしたい」という思いにほかならない。まさに公共事業でまちの価値を上げることを目的に事業の監修と職員の育成に取り組んできた高尾氏は、道路行政に携わる土木技術者にこうエールを送る。
「土木は地味な仕事です。道路の整備くらいでは、ほとんど注目されません。しかし道路は、地域の中でベーシックな空間です。まちを良くしたいという思いの下、そこが丁寧につくられ、場所性に見合う仕上がりになれば、まちで快適に過ごせるようになるんです」
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
九州支局長を務めております一般社団法人地域力創造デザインセンター代表理事の高尾忠志です。今回は長崎県長崎市の事例を紹介する記事です。眼鏡橋に近い寺町エリアで行われた道路改修の取り組みです。
道路改修にあたっては施工前に警察協議が行われますが、「車道と路側帯の間に敷かれる白線」と「車道と路側帯の舗装を分ける縁石」とが二重に並ぶのはドライバーに誤解を招くので認められないので、縁石の上に白線を敷くように、との指摘に疑問を感じた長崎市土木技術職員・作本さんは、二重に並べるのでもなく、縁石の上に白線を重ねるのでもない「第3のアイデア」を考案しました。さて、それはどんな方法だったでしょうか…?
実は、私も長崎市景観専門監(非常勤特別職員として長崎市役所が行う公共事業全体の監修をするインハウス・スーパーバイザー)としてこの事業を監修しました。出島の対岸の公園整備でご一緒して以来10年以上にわたって作本さんとお付き合いしていますが、一貫して粘り強い作本さんのアイデアとそれを受け継いだ馬場さんのバトンリレーで実現した道路改修事業を、ライターの茂木さんが軽快なタッチでわかりやすくまとめていただいた記事となっておりますので、ぜひご覧いただけましたら。
眼鏡橋にほど近い「紺屋通り」の整備後の様子。何の変哲もない通りに見えるが。。。(写真提供:茂木俊輔)
紺屋通りの整備は歴代担当職員のバトンリレーで実現した(写真提供:茂木俊輔)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG設計者と施工者が一体となり、建築と土木の境界、設計と施工の境界を超えて、新しい都市にとけこむ洗練された橋を誕生させる物語を、設計者であるネイ&パートナーズJAPANの渡邉さん、鋼桁の製作を担当されたUBEマシナリーの和多田さんに、それぞれの立場から語っていただきました。「ものづくりの原点」が熱く語られています。
【エピソード6】
[テーマ] 建築と土木,設計と施工の垣根を超えて
[出演者]
司会:杉山 裕樹さん(阪神高速先進技術研究所)
ナビゲーター:石井 博典さん(横河ブリッジホールディングス)
ゲスト:渡邉 竜一さん(ネイ&パートナーズJAPAN)
ゲスト:和多田 康男さん(UBEマシナリー)
イイねボタンと応援メッセージ、質問、コメントはYouTubeのコメント欄または、動画概要欄に記載のメールアドレス宛にいただけると嬉しいです。
エピソード1:富山大橋の 橋洗い から考える
エピソード2:ツアーガイドから見た橋の魅力を考える
エピソード3:メディアが伝える橋の魅力とは-市民目線のインフラの魅力を考える-
エピソード4:コモンズ(共有財)としての在り方を考える
第112代土木学会会長のプロジェクトの1つ「クマジロウの教えてドボコン動画配信」では佐々木葉会長の家族のくまのぬいぐるみ“クマジロウ”が、土木学会のコンシェルジュの“ドボコン”に素朴な質問をします。短い動画で土木学会のしくみや活動をお伝えします。あれ?そうなの?なぜ?と今までのあたりまえを考えるきっかけになるかも。気楽にお楽しみください。
エピソード9:総会ってなに?土木学会の大事なイベントの1つである総会について紹介します。総会では前年度の事業報告や決算に加え、
理事及び監事、そして、会長の選任などが行われます。
総会の仕組みや、当日に開催される土木学会賞の表彰式についても紹介します。
土木学会令和7年度定時総会|https://committees.jsce.or.jp/jsceoffice/node/208
令和6年度土木学会賞受賞一覧|https://www.jsce.or.jp/prize/prize_list/p2024.shtml
2023年9月,熊本県にある石造水路橋の通潤橋が,橋梁として初めて国宝に指定されました.今回は,通潤橋の国宝への認定に尽力された文化庁の北河大次郎さんに,文化的な視点から橋の魅力を語っていただきました.
【エピソード6】
[テーマ] 文化財の視点から見た橋梁の魅力とその価値について
[出演者]
ゲスト:北河大次郎さん(文化庁 主任文化財調査官)
司 会:永元 直樹さん(三井住友建設)
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エピソード1:富山大橋の 橋洗い から考える
エピソード2:ツアーガイドから見た橋の魅力を考える
エピソード3:メディアが伝える橋の魅力とは-市民目線のインフラの魅力を考える-
エピソード4:コモンズ(共有財)としての在り方を考える